孫皓「孫呉など滅びてしまえばいい!」
概要
二宮事件や南魯闘争とも呼ばれ、10年近くおよんだこの事件により呉は有能な人材を多く失い、その命脈を削ることとなった。
ちなみに正史には記載されているが、三国志演義では、孫登が第一皇子という設定、孫和が第二皇子という設定、孫亮が第三皇子という設定、孫休が第六皇子という設定である。他の子には登場せず、基本的には省かれる。
早い話が呉の後継者争いと、それに伴う重臣たちの政治争いである。
皇太子だった長男・孫登が病死してしたため孫権はその三男・孫和を新たな皇太子としたが、よりにもよって四男・孫覇を同等に扱ってしまう。重臣たちも孫和派と孫覇派に分かれてしまい、孫権に対する諫言・讒言合戦が行われてしまい国力を大いに削ることになった。
孫家の後継者争いなだけあって孫姓の人がたくさん出てくるため、慣れないうちはわけが分からなくなる。
登場人物
孫権と子どもたち
ご存じ呉の初代皇帝にして全ての元凶。
晩年老害化が目立つとされる 孫権 だが、この事件は呂壱事件以上の人生最大の汚点。
最後の最後に一番とんでもないことをやらかしてしまった。
やはり孫家DQNの血は伊達ではなかった…
- 孫登
孫権の長男。
当初は皇太子とされていたが病により孫権より先に死んでしまった。
孫登は孫和と仲がよかったため、孫和を後継者とするように遺言を残していたが…。
- 孫和
孫権の三男。
妻は張承の娘、つまり張昭と諸葛瑾の孫娘でもある。孫登の死後、前述の遺言と次男の孫慮が既に亡くなっていたこともあり、新たな後継者として擁立される。
しかし、その後孫権からの寵愛が薄れていき、弟の孫覇が寵愛されるようになる。その裏にはある女の影が…。
孫権の病が重くなり、争いの真相に気づいて孫和を許そうとしたときは、孫弘や全公主(孫魯班)と共にこれを阻止したという。
悪名高い孫皓の父でもあるが、彼自身は学問が好きで、臣下の諍いを良い形で仲裁するなどまともな人物だった。
- 孫覇
孫権の四男。孫権により魯王に封じられ、三兄・孫和と同等の扱いを受ける。そのため両者の間で後継者争いが激化していき…。
余談だが似た立場であった魏の曹丕と曹植は、あくまで取り巻きたちの勢力争いで本人たちはさほど嫌い合っていなかったとする説もあるが、こいつは積極的に後継ぎの座を狙っていた。
- 孫休
孫権の六男。
生母が琅琊の王夫人に皇宮を追い出されていたことに加え本人自体も孫権から全く期待されていなかったこともありここでは空気。のちの三代目皇帝。
- 孫亮
孫権の七男。
詳しくは後述するが、結局2人の兄のどちらでもなく彼が跡を継ぐことになった…。
聡明な人物として一般的に知られている。が、皇太子に指名された当時はなんと8歳! 孫権 が死んで皇帝に即位した時点でもわずか10歳!
孫権ェ…。のち孫綝に皇位を廃されたが、その孫綝を殺害した六兄・孫休に危険視され自殺に追い込まれた。時にわずか18歳。
孫権と歩夫人の娘で姉の方。周瑜の長男・周循に嫁いだが死別。のち全琮へ再嫁し全公主と呼ばれるようになった。 三国志大戦では字の大虎として登場。大流星の儀式で覚えている人も多いのでは?
二宮の変では孫和と対立して孫覇に与する、孫覇は死を賜った後、末弟の孫亮に与した。甥の孫峻と密通しや妹さえも死においやる悪女っぷりを見せつけた。しかし孫峻死後、孫綝との権力争いに敗れ予章へ配流された。
孫権と歩夫人の娘で妹の方。朱桓の族子・朱拠へ嫁し朱公主と呼ばれるようになった。 三国志大戦では字の小虎として登場。
姉と正反対の性格の持ち主だったが朱拠が孫和派に属していたため姉に憎まれる。孫権の死後、姉に唆された孫峻に処刑されてしまった。
孫権の妻たち
- 徐夫人
事実上の正妻。孫登らは彼女を皇后にすることを望んでいたが、嫉妬深い性格を孫権から嫌われ立后することを拒否した。
こちらは本人が皇后になることを辞退し、239年に逝去。
- 琅琊の王夫人
大懿皇后(追贈)。孫和の母にして孫皓の祖母。嫉妬深い性格。南阳の王夫人(孫休の母)を皇宮から追い出している。孫和が皇太子になったために立后を有力視されていたが、全公主の譖言によって立后されず最期は憂死した。この後の孫和も寵愛を失い、のち南陽王に降格されてしまう。
- 袁夫人
孫権の妃嬪の一人。袁術の娘、袁紹の従姪または姪。三国志大戦では袁姫として登場。正史では「人徳が高い」評価を得ており孫権から寵愛を受けた。歩夫人死去後に皇后になる事を懇願されたが、子がいなかったため断っている。
二宮では関係はなかったが、後述の潘皇后に中傷された人物として名を挙げられている。
- 潘皇后
潘淑。孫権最後の皇后にして孫亮の母。奴隷の出身、絶世の可憐系美女と伝われているが孫権の寵愛を受けた。一方、腹黒で嫉妬深い性格であり他の妃嬪を誹謗中傷している。孫権が重体になると、前漢の呂后が劉邦の死後に政権を掌握した経緯を、孫弘に命じて調べさせた野心家だったが、恨みを買っていた侍女たちに殺害されてしまった(諸葛恪の差し金とも)。
そして二宮の最終勝者、子の孫亮は全公主に注目される、全公主は孫亮の妃に自分の夫の族孫である全尚の娘を薦めた、将来の皇后の位に据えようと図ったという
臣下たち
- 孫和派
陸遜(ご存じ夷陵の放火魔。当時の丞相でもあり言わずもがなの建国功労者)
吾粲(孫和の傅役)
朱拠(孫魯育の夫)
顧譚・顧承(顧雍の孫、陸遜の甥)
張休(張昭の末子。孫和の妻や陸抗の妻の叔父)
諸葛恪 ・諸葛融(諸葛瑾の長男と三男)
施績(朱然の息子)
その他多数
- 孫覇派
全琮(孫魯班の夫)
全端・全奇(全琮の長男と次男)
全緒(全琮の甥)
呂岱(武官の長老格)
呂拠(呂範の次男)
楊竺
孫弘
諸葛綽(諸葛恪の長男)
孫奇(孫堅の兄・孫羌の曾孫)
呉安(孫権の叔父・呉景の孫)
その他多数
諸葛家のように親子が分裂したケースもあったり、同じ派閥でありながら武将同士は不仲であるケースもあるなど複雑である。
経過
芍陂の役と孫登の死
241年、孫権は揚州・荊州の二方面より侵攻を開始し全琮が寿春に、諸葛恪が六安、朱然が樊城、諸葛瑾・歩騭が柤中を目指して軍を進めた。
揚州戦線は諸葛恪が六安を攻撃をしている間に全琮は寿春方面に侵攻する手筈であった。しかし、全琮は芍陂において孫礼・王淩(王允の甥)と戦い退却。その後、張休・顧譚・顧承・全端・全緒の奮戦もあり魏の逆侵攻を防いでいた。
荊州戦線では樊城に軍を進めた朱然は城を包囲し胡質・司馬懿に防がれた。柤中方面軍は諸葛瑾が発病して軍の指揮を取れなくなる事態になった。
この最中、5月に皇太子・孫登が34歳で死去するという大事件が起こり呉軍は全て撤兵した。ちなみに同年閏6月には諸葛瑾も病死している。
この「芍陂の役」の論功行賞において張休・顧承が戦功第一とされたことに全端・全緒が猛反発し遺恨を残すことになった。
孫魯班の暗躍~王夫人と孫和の受難
孫権は孫登の遺言もあり孫和を新たな皇太子に立てる。それに伴って孫和の生母である王夫人を皇后に立てようと、重臣たちが孫権に働きかけた。
が、それが気に食わない女が一人……露伴ちゃん、もとい孫魯班である。
実は魯班の母・歩夫人はかつて皇后になれなかったという過去があり、他の女が皇后になることが許せなかったのである。(歩夫人本人が固辞してたんだけどね)
そこで魯班は王夫人を皇后にさせないために、孫権にあることないこと吹聴するようになる。
例えば、ある時孫権が病床に臥せってしまい、孫和が宗廟で快復祈願をすることになった。
その際にちょこっと席を外して妻の叔父である張休の下に立ち寄ったのだが、それを聞いた魯班はそれを誇張して、
孫魯班「孫和は父上がご病気なのに、宗廟で祈らず叔父と謀議ばかりしております」
さらに
孫魯班「王夫人は父上の病気を喜んでおります」
と讒言した。
これを聞いた孫権は大激怒し、王夫人を皇后に立てることを取りやめ、孫和を疎んじるようになる。
その後も魯班は讒言を繰り返し、孫権の寵愛は孫和から孫覇に移っていくようになっていった。
孫和派粛清劇~陸遜憤死
やがて孫覇は孫和とほぼ同等の扱いをされるようになり、家臣たちの間で太子廃立が行われるのでは?と囁かれるようになる。そして、丞相の顧雍が243年に逝去してから争いはさらに激化していった。
これに目をつけたのが呉政権の非主流派たちである。
元々呉は地方豪族の寄り合い所帯みたいなものであり、言わば連立政権のようなものであった。
陸家や顧家など政権の主流派が孫和派に属していたわけだが、ここで孫覇が後継ぎとなれば非主流派の自分たちが政権の中枢へ行けると考えたわけである。
非主流派's「「「これは…チャンスやん?」」」
これに当時の丞相・陸遜は危機感を抱いたものの、荊州牧も兼ね荊州統治のため武昌を離れられなかったこともあり度々孫権に対して長幼の序を大切にして孫和を擁護する文書を送るに留まっている。
一方、全琮は当初慎重派だったため陸遜と連絡を取り合っていた。しかし次男の全奇が孫覇に肩入れしていることを陸遜に非難され誅殺しろとまで言われたために絶交し孫覇派に付いた。その後、全琮と全奇は讒言により孫和の傅役である吾粲を処刑。さらに芍陂以来因縁ある張休・顧承に加え全奇と元々不仲だった顧譚に対しても罪を着せて交州へ流刑にしてしまった。のち張休は孫弘による偽の詔で自害させられ顧兄弟も交州において早世した。時に張休41歳、顧譚42歳、顧承37歳。このため全琮は陳寿に「世間に謗られ名誉を失った」、裴松之に「論ずる必要もない悪人」などと言われてしまうことになった。
事態のさらなる悪化を受けて陸遜は建業に出向いて直接孫権を説得しようとした。それに対して孫覇派は孫権に讒言し、楊竺に至っては陸遜に関する20カ条もの疑惑事項を告発するという有様だった。
この10年で張昭・潘濬・諸葛瑾・顧雍たち諌め役が次々世を去ったこともあってかこれを真に受けた孫権は陸遜に何度も問責の使者を送りつけ
孫権「とりあえず左遷」
陸遜「そんな馬鹿な……」
全琮「お前のせいだ」
建国功臣であった陸遜は憤死。
孫魯班「計画通り」
さらなる泥沼化~喧嘩両成敗
陸遜の死もあり孫覇派が一度は主導権を握るものの、全琮・歩隲の重鎮が相次いで死去してしまう。
これに乗じて孫和派が一転攻勢!汚名挽回!
……と思いきや、この機会を活かすことができず、結局状況はさらに混迷化し、泥沼の様相を呈してしまう。
ちなみに孫権は、この頃になると自分が元凶のくせに2人の息子の争いに嫌気が差していた。
結局孫権は孫和を廃立し南陽王に降格、孫覇には自害を命じ、当時8歳だった七男・孫亮を皇太子とした。
さらに孫覇派で積極的に工作に参加した全奇・孫奇・呉安たちを誅殺し、孫和派の方も朱拠は棒叩きで済んだが孫和の廃立に反対した者たちがばんばん処刑された。
その後
この政権争いは、幕引き後も呉に悪い意味で大きな影響を残している。
彼が左遷した臣下たちは呉の建国に大功のあった重要な人材やその子や孫たちである。
それを内輪揉めで次々左遷したり処刑したりしたため、呉の屋台骨は一発でガタガタになってしまったのである。
孫権の死後、当時わずか10歳の孫亮が皇帝に即位したものの、当然まともな政治など行えるはずもなく、側近の諸葛恪が実権を握ることとなった。
……が、その諸葛恪が魏への遠征に大失敗。多大な損害を出して失脚した諸葛恪を、今度は元孫覇派 だった孫峻がクーデターを起こし誅殺。さらに孫和夫妻や朱拠を自殺に追い込んだ。
これでやっと落ち着いた…と思いきや、今度は孫登の子である孫英が孫峻を暗殺しようとして失敗。
孫峻急死後、その権力は従兄弟の孫綝へ引き継がれる。が、この頃には即位時は幼かった孫亮も大人になり、自分で政治をとり行おうとする。
意のままにならない孫亮が邪魔になった孫綝は孫亮を廃し、孫権の六男孫休を擁立した。そして魯班は予章に流され全一族もいろいろあり没落。その孫休に孫綝が殺され……と、内紛は長い間続くことになった。さらに271年に陸抗と晋に寝返った歩闡が戦った西陵城攻防戦は奇しくも二宮事件で因縁ある陸家と歩家の対決という構図になっている。
余談
魏でも司馬懿父子が曹爽一派を排除した「高平陵の変」以降は王淩・毋丘倹・諸葛誕が起こした所謂「淮南の三叛」に司馬師暗殺計画・曹髦殺害事件・鍾会の乱のようにいろいろあったが、司馬一族を中心とした政治体制そのものがぐらつくようなことはなく、国力自体はキープしのち、魏から晋に移行した。
蜀は呉とは仲がよく意気軒昂ではあったが、呉と比べても国力が小さすぎた上に、姜維の北伐は成果をほとんど挙げられず反って国を疲弊させてしまい263年に魏に攻められ滅亡した。
元々魏は呉の3倍近い国力を持っていただけに、この争いは呉が魏に勝つかすかな可能性を封じてしまったとさえ言われているのである。
また、三国志最悪の暴君として知られる孫皓は、父を大変敬愛していたようで帝位についたあと何度も父を祀っていたという。
孫皓が暴政に走ったのは、父・孫和が一度は皇太子として立てられながらも理不尽に廃立され、祖母である王夫人、父の正妻・張夫人共々悲劇的な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。
三国志で後継者争いといえば、後継ぎに悩む曹操に賈詡が例として挙げた袁紹と劉表が有名であるが、タチの悪さはこちらの方がはるかに上である。
唯一の救いは、孫権が後に陸遜に対する誤解を解き、陸遜の次男・陸抗を取り立て陸遜に対する自らの行いを謝罪したことくらいだろうか。
その後、陸抗が呉末期の大黒柱となり、死ぬまで斜陽の呉を支えたことを考えると、孫権にもまだ人を見る眼は残っていたのかもしれない。
演義では、全公主と孫和の不和に言及する、それ以外の事はすべて省略した、ある意味優遇と言えるのかもしれない。