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編集内容:チェコ事件と勲章のところとか書き足しました。あと民族籍のところにあれちょっと特殊なんで説明を足しました。

概要

レオニード・イリイチ・ブレジネフロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев、ウクライナ語:Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年10月から1982年11月まで同国の第4代最高指導者であった。フルシチョフの後任の書記長(当初は第一書記)となり、1977年6月からは最高会議幹部会議長を兼任した。ブレジネフの統治は政治的な安定性と外交上の成功という性格を持つ一方で、腐敗・非効率・経済停滞・急速に開いた西側諸国との技術的な格差によって特徴付けられる。

 

経歴

1906年12月19日にロシア帝国のイェカチェリノスラフ県カーメンスコエに誕生した。1917年11月のロシア革命以後の若者たちの多くと同様に技術的な教育を受け、まず土地の経営の後に冶金学を学んだ。1923年に共産党青年組織のコムソモールに加入し、1929年10月に党の中央委員候補となり、1931年10月に正式な党員となった。

1935年10月に義務的な軍務に服し、戦車学校における講習を受けて戦車工場のコミッサールとなった。同年5月にカーメンスコエ冶金技術テフニクム(技術大学)を卒業し、ウクライナ東部の製鉄・製鋼工場で冶金技術者となった。

1936年8月に実施されたヨシフ・スターリン党書記長による大粛清の最中に、ブレジネフはアパラーチクという特権階級の1人となった。1936年11月にブレージネフはドニエプロジェルジーンスク冶金技術テフニクム(技術大学)の校長となり、ドニエプロペトローフスクの中心へと移った。1937年5月にカーメンスコエ市ソヴィエトの副議長となった。1938年5月にニキータ・フルシチョーフがウクライーナ共産党の実権を掌握した後、ブレジネフはドニエプロペトローフスク州の共産党プロパガンダ部局長となった。1939年2月に地区党書記へと任命され、市の防衛産業の責任者となり、この時に支持者たちのネットワークを築き上げる事になった。これは「ドニエプロペトローフスク・マフィア」として知られるブレジネフの権力への上昇を大いに助ける事になる。

1941年6月に独ソ戦が開始され、軍の政治委員として活動した。1943年4月に第18軍の政治部長になり、1946年4月に少将の階級で赤軍を去ってドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らはドニエプロペトロフスク・マフィアと呼ばれた。1952年10月に党中央委員会及び最高会議幹部会の構成員となった。

1953年3月にスターリンが死去し、フルシチョフの後援によって政治総局長第1代理に任命された。1954年2月にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年8月に同党中央委員会第一書記としてカザフスタンの開拓事業を指導した。

1956年2月にモスクワへ戻ってフルシチョフの側近となり、1957年6月にスターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局員となる。1960年5月に最高幹部会議議長に就任し、名目上の国家元首になった。この時西側諸国への外遊により、高級車・ブランド品への欲望が高まる。

1964年10月にフルシチョフが失脚した後に党第一書記となり、同国の第4代最高指導者となった。1965年12月にアナスタス・ミコヤンが失脚し、党はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。1966年4月に「党第一書記」をスターリンの肩書きであった「書記長」に戻した。

1968年1月にチェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第一書記による改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判してワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれたが、ソ連に対する期待が失われて国際共産主義運動は分裂した。

1976年5月に軍隊を指揮した経験も無しにソ連邦元帥となる。健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになって数々の勲章で自らを飾ったが、国民からの尊敬を得られなかった。1977年6月にポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフが最高会議幹部会議長を兼任した。同年10月に憲法改正(ブレジネフ憲法)を実行する。

1982年11月10日に心臓発作によって75歳で死去し、赤の広場に埋葬される。

外交

アメリカ合衆国

1972年5月にアメリカリチャード・ニクソン大統領との首脳会談で戦略兵器制限条約を締結し、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推進した。その一方で1971年12月の第3次印パ戦争、1973年10月の第4次中東戦争、1975年3月のアンゴラ内戦、1977年7月のオガデン戦争など米ソの代理戦争が行われた。

アフガニスタン

1979年12月にアフガニスタンへの軍事侵攻を実行し、アメリカとの緊張緩和は終焉した。これが原因で1980年7月に共産圏で初の開催となったモスクワオリンピックは、同国への軍事侵攻を非難する諸国からボイコットされ、再度開始した軍拡でソ連経済は悪化した。

チェコスロヴァキア

 ブレージネフ体制の最初の危機は、1968年、アレクサンデル・ドゥプチェク率いるチェコスロヴァキア共産党指導部による、共産党体制のリベラル化の試み(プラハの春)とともにやって来た(※1)。七月、ブレージネフは公然とチェコスロヴァキア指導部を「修正主義」「反ソ的」として非難した。ブレージネフの守旧的な公式声明にもかかわらず、ブレージネフ自身は、政治局にその議題が持ち込まれるまで、チェコスロヴァキアで軍事的な手段を用いることを主張する一人ではなかった(※2)。文書が示すところでは、ブレージネフは(※2)、仮に事態が危殆に瀕したならば、改革志向のチェコスロヴァキア政府との暫定的な妥協をも模索する少数派の一人であった(※3)。しかしながらブレージネフは結局、仮にソヴェトによるチェコスロヴァキア介入を差し控えるか、彼がそれに対する反対投票をした場合、国内と東側ブロックの内部に混乱が大きくなるというリスクを冒すことになると結論した(※4)。

 ソヴェト指導部の中で、プラハに「革命的政府を再設置」するようブレージネフに圧力がかかるようになり、ブレージネフは八月、ワルシャワ条約機構に対し、チェコスロヴァキアへの介入とドゥプチェク排除とを命じた。ソヴェトの介入後、ブレージネフはチェコスロヴァキアの改革派で、当時チェコスロヴァキア共産党の政治局員であったボフミール・シモンと面会し、「仮に私が、ソヴェトによるチェコスロヴァキアの軍事支援に票を投じなかったならば、あなたは今日ここに坐ってはいなかっただろうが、私はいずれの選択肢もとらなかっただろう」と告げた(※3)。しかし、モスクワが見越していた安定化の効果とは裏腹に、介入は東側ブロック内で、さらなる異論派を生み出す触媒となった。

※1 Herd, Graeme P.; Moroney, Jennifer D. (2003). Security Dynamics in the former Soviet Bloc, Vol. 1, Routledge, p. 5.

※2 Brown, Archie (2009). The Rise & Fall of Communism, Bodley Head, p. 389.

※3 O・A・ウェスタッド『冷戦 ワールド・ヒストリー』下巻、益田実監訳、岩波書店、2020年、87から88ページを参照せよ。

※4 Brown, Archie (2009). The Rise & Fall of Communism, Bodley Head, p. 399.

中華人民共和国

1969年3月にウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突が発生し、ブレジネフの治世では中国との関係は悪化し続けた。

日本

1973年10月に田中角栄首相と会談し、共同声明を発表した。同声明では「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する事が、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記され、ブレジネフは北方4島の問題が戦後の未解決の諸問題の中に含まれる事を口頭で確認した。その他にヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などの日本との経済協力を打ち出した。

アネクドート

ブレジネフ関係のアネクドートは無数にあり、以下のものなどがある。ちなみにブレジネフが党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。

『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』

『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』

『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』

【参考文献】

レオニード・ブレジネフ(サカルカ)

家族

1927年11月にヴィクトリア・ペトロヴナ・デニソワと結婚し、1929年4月に長女のガリーナ・1933年3月に長男のユーリが誕生した。

関連リンク

※詳しくはwikipedia「レオニード・ブレジネフ」を参照。

その他

個人崇拝

ロシアの歴史家であるロイ・メドヴェーヂェフは、ブレージネフの官僚的な心的傾向と個性こそ、彼に権力を得させることを可能にした力であると強調する。ブレージネフは自分の友人たちに忠実で、儀礼的な権力を無益に渇望し、そして党内における腐敗を抑制することを拒絶した。特に外交政策で、ブレージネフは政治局の同僚たちに何も告げることなく、ますます自分自身で決定を下すようになっていた(※1)。

ブレジネフは意図的に様々な人々に対し様々なペルソナを示すようになり、それは体系的な彼自身のキャリアの美化へと帰結していった。ブレージネフ時代の最晩年は、増大する個人崇拝によって特徴づけられる。ブレージネフのメダルへの愛好(彼は百個以上のメダルを受け取っていた)はよく知られており、1966年12月の60歳の誕生日にブレジネフはソヴェト同盟英雄の称号を受け取っている。

ブレジネフはその称号と共にレーニン勲章金星記章を受け取っており、さらに3度彼の誕生日の祝典にて授与されている。彼の70歳の誕生日には、ブレージネフはソヴェト同盟元帥の位に叙されており、これはソヴェト同盟の最高位の軍事的な栄典である。この階級に叙された後にブレージネフは陸軍の退役軍人たちの第18回大会へと出席し、長いコートで着飾って「気を付け! 元帥がやって来るぞ。」と言っていた。

1978年2月にブレジネフは稀少な勝利勲章を自身に授与したが、1989年9月に表彰の基準を満たしていないとして、死後に剥奪された。

ブレジネフの分不相応な栄誉への渇望は、彼の貧弱な回顧録の中によっても示されている。回顧録は、ブレージネフの第二次世界大戦中の軍務について回想し、あまり重要ではないノヴォロシースク周辺での戦闘を、決定的な戦域として扱っている(※5)。彼の本の明白な薄弱さにもかかわらず、この本はレーニン文学賞を受賞し、ソヴェトの報道によって歓迎された(※4)。

この本の後は、さらに二つの別の本が続き、その1つは処女地キャンペーンに関するものである(※6)。ブレージネフの虚栄心は、彼を多くの政治的なジョークの対象とした(※4)。ニコライ・ポドゴルヌイがこれについて警告すると、ブレジネフは「もし彼らが私をからかっているのなら、つまり彼らは私を好きだということだ。」と答えた(※7)。

伝統的な社会主義的挨拶を保ち、ブレージネフは彼の経歴の中で、多くの政治家の唇に接吻していた。そのうちのひとつはエーリヒ・ホーネッカーとのもので、その開放・解体後にベルリンの壁に描かれた壁画〈神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え〉の主題となっている(※8、※9)。

センシティブな作品

※1 Roy Medvedev, "Brezhnev-A Bureaucrats Profile." Dissent (Spring 1983): 224–233.

※2 John Dornberg, Brezhnev: The Masks of Power (1974).

※3 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 8.

※4 Bacon & Sandle 2002, p. 9.

※5 Service, Robert (2009). History of Modern Russia: From Tsarism to the Twenty-first Century (3 ed.), p. 403. Penguin Books Ltd. ISBN 978-0674034938.

※6 Abdullaev, Nabi (19 December 2006). "Brezhnev Remembered Fondly 100 Years Since Birth". The St. Petersburg Times. Archived from the original on 21 January 2012. Retrieved 11 April 2010.

※7 Bacon & Sandle 2002, p. 29.

※8 "Kiss of Soviet Leader Brezhnev and East German President Honecker". Corbis. ソヴェトの指導者レオニート・ブレージネフと東ドイツの大統領エーリヒ・ホーネッカーが、ドイツ社会民主共和国三十周年の式典でキスを交わしている。

※9 "Brezhnev Hugs Poland's Ruler". The Deseret News. Associatged Press. 1 March 1982. p. 1 – via Google News.

民族籍(национальность)

多民族国家であるソ連およびその影響を受けた国々では、«гражданство»(国籍)のほか、どのナショナリティ/エスニシティにアイデンティティを持っているか、身分証明書に民族籍が明記された。日本語で「日本語話者」「日本人」「日本国民」「日本出身者」がすべて意味が異なることを考えられたい。※1)

ブレジネフは民族的には«русский»(ロシア人)であるが、彼のパスポートも含めたいくつかの文書では、«украинец»(ウクライナ人)と記されている(※2、※3、※4)。別の文書ではロシア人と書かれており(※5、※6)、ブレジネフ自身のロシア人であるという声明は、自身の「回顧録」(1979年12月)の中に見出される。そこでブレジネフは以下のように書いている。

「そして民族籍によれば、私はロシア人であり、私はプロレタリアートであり、代々の冶金技術者であった(※7)。」

※1 このシステムを説明する日本語書籍としては石川晃弘『スロヴァキア・スイッチ』22世紀アート、2021年、142ページから143ページを参照。詳しくはテリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国──ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年』(明石書店、2011年)など。

※2 ブレージネフの身分証明書。«национальность»(民族籍)は«украинец»(ウクライナ人)であると表記されている。

※3 ブレージネフの賞与証書。同上。

※4 1947年時点のブレージネフのパスポート。同上。

※5 1943年時点のブレージネフの賞与証書。«русский»(ロシア人)となっている。ロシア語では«россиян»(ロシア国民/ロシア国籍保有者)と«русский»(民族的ロシア人)は峻別されている。

※6 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 6.

※7 "ЖИЗНЬ ПО ЗАВОДСКОМУ ГУДКУ". supol.narod.ru (in Russian). Retrieved 12 June 2022.

※8 McCauley, Martin (1997). Who's who in Russia since 1900, Routledge, p. 47.

ブレージネフ時代の遺産

 ブレージネフは、イオーシフ・スターリンを除き、誰よりも長くソヴェト同盟を率いた。彼はしばしば、長引いた「停滞の時代」ゆえに批判される。「停滞の時代」においては、根本的な経済問題が無視され、ソヴェト同盟の政治システムが衰退するままにされたとされる。ミハイール・ゴルバチョーフの指導者としての在職期間中、ブレージネフが「獰猛にネオ・スターリン主義の路線」を追い求めていたなどという、ブレージネフ時代への批判が高まりを見せた。ゴルバチョーフ時代の言説は、ブレージネフを、国の近代化と時代に合わせた変化に失敗したと非難していたが(※1)、一方、ゴルバチョーフののちの声明では、ブレージネフが後になって描き出されたほど悪くはなく、「ブレージネフは、いま彼が描かれるような、風刺画的な人物では全くなかった」ともしている(※2)。ブレージネフの経歴の中では最大のひとつであるアフガニスタン介入は、ソヴェト同盟の国際的な地位と、国内的な強さとの双方とを蝕むことになった(※3)。ブレージネフを弁護するとすれば、彼の統治下で、ソヴェト同盟はかつてなく、また二度とないレベルの国力、威信、そして国内的な安定を達成していた(※4)。

 ブレージネフは、ロシアで行われた世論調査では、彼の後継者と前任者と比較して好評を得た。ВЦИОМによって2007年に行われた世論調査では、ロシアの多数派は、仮に暮らすとすれば、他の20世紀のあらゆるソ連時代よりも、ブレージネフ期を選んだ(※5)。レヴァダ・センターが2013年に行った調査では、ブレージネフはロシアの20世紀の好ましい指導者として、ヴラヂーミル・レーニンを肯定的な反応で56%も凌駕した(※6)。2013年に行われた別の投票では、ブレージネフは20世紀のロシアの最良の指導者に選出されている(※7)。2018年、社会科学グループ「レーティング」の調査では、ウクライーナの回答者の47パーセントがブレージネフに肯定的な評価を下していた(※8)。

 西側では、ブレージネフは多くの場合、やがてソヴェト同盟の解体の引き金を引くことになる経済停滞を引き起こした人間として記憶されている(※9)。

※1 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 2.

※2 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 27.

※3 McCauley, Martin (2008). Russia, America and the Cold War, 1949–1991, Pearson Education, p. 77.

※4 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 1.

※5 "ВЦИОМ: Лучшие лидеры — Брежнев и Путин" (in Russian). Rosbalt.ru. 25 April 2007. Retrieved 15 April 2010.

※6 "Brezhnev Beats Lenin as Russia's Favorite 20th Century Ruler". RIA Novosti. 22 May 2013. Retrieved 24 May 2013.

※7 Kolyandr, Alexander (22 May 2013). "Brezhnev Tops List of Most Popular 20th-Century Moscow Rulers". The Wall Street Jo. Retrieved 25 November 2020.

※8 "Survey shows Ukrainians most negatively regard Stalin, Lenin and Gorbachev". Kyiv Post. 20 November 2018.

※9 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 8.

レオニート・ブレージネフが受章した賞と勲章

ソヴェト同盟の褒章

ソヴェト同盟英雄1966年12月18日、1976年12月18日、1978年12月18日、1981年12月18日「ソヴェト国家及び社会への奉仕における英雄的な功績のため」。メダルも誕生日に授与された。
社会主義労働英雄国家の経済と文化における卓越した功績のため
レーニン勲章1947年12月2日、1956年12月18日、1961年6月17日、1966年12月18日、1971年10月2日、1976年12月18日、1978年12月19日、1981年12月18日国家への優れた奉仕のゆえ
十月革命勲章1979年3月14日、1980年12月18日共産主義もしくは国家の促進、またソヴェト同盟の国防の強化ゆえに
赤旗勲章1942年3月12日、1944年5月29日戦闘中の英雄主義、または戦闘作戦中の卓越した軍事的な功労
第二級ボグダン・フメリニツキー勲章1945年5月25日ソヴェトの国土の解放のための戦闘行動における卓越した功労のゆえに
第一級祖国戦争勲章1943年9月18日ソヴェト母国のための戦闘と、その行動が軍事作戦に多大に寄与した兵士たちの、卓越した奉仕と功労のゆえに
赤星勲章1943年3月16日戦時と平時におけるソヴェト同盟防衛のための卓越した勤務のために
「ヴラヂーミル・イリイーチ・レーニン生誕百周年祝賀」記章
「オデッサ防衛」記章
「カフカース防衛」記章
「1941-1945年大祖国戦争対独戦勝」記章
「1941-1945年大祖国戦争戦勝二十周年」記章
「1941-1945年大祖国戦争戦勝三十周年」記章
「ワルシャワ解放」記章
「ウィーン占領」記章
「1941-1945年の大祖国戦争における功績」記章
「軍の絆の強化」記章1980年6月2日
「南部黒鉄冶金産業の復興」記章1945年ドイツに対するソヴェトの戦争遂行に貢献した産業及び輸送業の労働者、技術者、被雇用者、および農業従事者、農業専門家、科学者、芸術家、作家、公務員、党員、労働組合員とその他公共機関員のために
「処女地開拓」記章1957年4月29日処女地開拓カンパニヤの最中に貢献した、コルホーズ農業従事者、国営農場労働者、集団労働者、党および国家の公務員、労働組合員およびコムソモール員のために
「ソヴェト同盟軍四十周年」記章1958年ソヴェト同盟軍の建設四十周年を祝賀し、元帥将軍提督士官およびその他の軍人へと授与された。
「ソヴェト同盟軍五十周年」記章1968年ソヴェト同盟軍の建設五十周年を祝賀し、元帥将軍提督士官およびその他の軍人へと授与された。
「ソヴェト同盟軍六十周年」記章1978年ソヴェト同盟軍の建設六十周年を祝賀し、元帥将軍提督士官およびその他の軍人へと授与された。
「レニングラード250周年記念」記章1957年レニングラード建設250周年を祝賀し、市民および軍勤務者へと授与された。
「キーエフ1500周年記念」記章1982年ウクライーナ首都キーエフの社会・文化的、および経済的発展への彼の貢献ゆえに
レーニン文学賞1979年ブレージネフ三部作と俗に呼ばれる三部作の一部『小さな土地』のために
レーニン平和賞1973年
勝利勲章1978年2月20日(1989年9月21日、ソヴェト同盟最高ソヴェト幹部会の布告によって剥奪された)

外国の褒章

五月勲章アルゼンチン1974年
自由の太陽勲章アフガニスタン民主共和国1981年カーブル
ブルガリア人民共和国英雄ブルガリア人民共和国1973年、1976年、1981年ソフィア
ゲオルギ・ディミトロフ勲章ブルガリア人民共和国1973年、1976年、1981年ソフィア
「オスマン奴隷制からの解放百周年」記章ブルガリア人民共和国1978年
「ブルガリア社会主義革命三十周年」記章ブルガリア人民共和国1974年
「Г・ディミトロフ生誕九十周年」記章ブルガリア人民共和国1972年
「Г・ディミトロフ生誕百周年」記章ブルガリア人民共和国1982年
キューバ共和国英雄キューバ1981年ハバナ
ホセ・マルティ勲章キューバハバナ
カルロス・マヌエル・デ・セスペデス勲章キューバハバナ
プラヤ・ヒロン勲章キューバハバナ
「モンカダ兵営襲撃二十周年」記章キューバハバナ
「革命軍二十周年記念」記章キューバハバナ
チェコスロヴァキア社会主義共和国英雄チェコスロヴァキア社会主義共和国1970年5月5日、1976年10月26日、1981年12月16日プラハ
クレメント・ゴットヴァルト勲章チェコスロヴァキア社会主義共和国プラハ
白獅子勲章チェコスロヴァキア社会主義共和国プラハ
「ドゥクラ峠の戦い」記章チェコスロヴァキア社会主義共和国
軍記念記章チェコスロヴァキア社会主義共和国
チェコスロヴァキア従軍十字章チェコスロヴァキア社会主義共和国プラハ
敵前勇敢記章チェコスロヴァキア社会主義共和国プラハ
社会主義エチオピアの名誉の星勲章デルグ
フィンランド白薔薇勲章フィンランド共和国ヘルシンキ
ドイツ民主共和国英雄ドイツ民主共和国東ベルリン
カール・マルクス勲章ドイツ民主共和国東ベルリン
諸国民友好勲章ドイツ民主共和国東ベルリン
ハンガリー人民共和国旗勲章ハンガリー人民共和国ブダペスト
第一級共和国星章インドネシア
国民黄金記章ラオス人民民主共和国
モンゴル人民共和国英雄モンゴル人民共和国ウランバートル
モンゴル人民共和国労働英雄モンゴル人民共和国
スフバートル勲章モンゴル人民共和国ウランバートル
「対日戦勝三十周年」記章モンゴル人民共和国
「ハルヒン・ゴル戦勝三十周年」記章モンゴル人民共和国
「モンゴル人民革命五十周年」記章モンゴル人民共和国ウランバートル
第一級国旗勲章朝鮮民主主義人民共和国
ペルー太陽勲章ペルー共和国リマ
ウィルトゥティ・ミリタリ大十字勲章ポーランド人民共和国1974年7月21日(1990年7月10日をもって剥奪された)ワルシャワ
ポーランド復興大十字勲章ポーランド人民共和国1976年ワルシャワ
第二級グルンヴァルト十字章ポーランド人民共和国1946年ワルシャワ
「オドラ、ニサ、バルト海」記章ポーランド人民共和国1946年ワルシャワ
「勝利と自由」記章ポーランド人民共和国1946年ワルシャワ
ルーマニアの星勲章ルーマニア社会主義共和国ブカレスト
社会主義の勝利勲章ルーマニア社会主義共和国ブカレスト
十月十四日革命記章イエメン人民民主共和国
金星勲章ヴェトナム社会主義共和国
労働英雄ヴェトナム社会主義共和国
ホー・チ・ミン勲章ヴェトナム社会主義共和国1982年ハノイ
第一級ユーゴスラヴィア星勲章ユーゴスラヴィア社会主義共和国1962年ベオグラード
自由勲章ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国1976年ベオグラード

関連タグ

ソ連 ソビエト連邦共産党

党中央委員会書記長

(前任者)ニキータ・フルシチョフ

(後任者)ユーリ・アンドロポフ

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編集内容:チェコ事件と勲章のところとか書き足しました。あと民族籍のところにあれちょっと特殊なんで説明を足しました。