概要
この一揆は島原半島および天草諸島で連動して発生したため、「天草・島原の一揆」「天草・島原の乱」とも呼ばれている。
一般的にはキリシタン(カトリック信徒)による反乱と思われているが、実際にはキリシタンではない農民や浪人も大勢加わり、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高によって敷かれた圧政の是正を求めた一揆であった。
背景
戦国時代には海外貿易を円滑に進めることを考えた大名達、いわゆるキリシタン大名などが領内でのキリスト教の宣教活動を認めるなどしていたため、各地には多くのキリシタン集落が生まれており、豊臣秀吉による統一後も海外貿易や宣教活動の公認はしばらく続いていたが、天正15年(1587年)、秀吉によって突如キリスト教の布教は禁じられ、バテレン追放令が発布された。
ここに至るまでの理由は諸説あり、キリスト教の布教を名目としてスペイン・ポルトガルから送られていた宣教師の中に尖兵(スパイ)が存在したらしいこと、一部のキリシタン勢力が既存の寺社仏閣に対する破壊活動を行い、仏教勢力を攻撃していたこと等が挙げられている。
ともあれこの段階ではまだ布教活動を禁止するという程度のことで、宗教活動自体はさほど問題視されていない。
秀吉が態度を硬化させるのは文禄5年(1596年)に起きた「サン・フェリペ号事件」がきっかけである。漂着したスペインのガレオン船の積荷の処遇について諍いが起き、ほぼ形骸化していた禁教令が発布されると同時に、二十六聖人の殉教という悲劇に繋がっている。
その後時代は下り元和元年(1615年)、いわゆる「元和偃武」により、徳川政権は長きに渡る戦乱の世に終止符を打つ。これにより江戸幕府による天下泰平の江戸時代、260年余にも及ぶ時代が始まった。
これに前後して、収賄に端を発してキリシタン大名・有馬晴信の切腹に繋がった「岡本大八事件」などをきっかけとし、江戸幕府はいわゆる鎖国体制を強める。
慶長17年(1612年)、キリスト教を危険思想と断ずる「慶長の禁教令」が発布されている。これは幕府直轄地に限り布教および信仰を禁ずるというものだったが、やがて諸大名はこれにならい、「国々御法度」として同様の策を取った。
一方九州では海外との交流も多く、キリシタン大名が支配した地域も多かったためにキリシタンが特に多かった。
畢竟、取り締まりの拷問もエスカレートしていき弾圧は苛烈なものであった。
そんな中、肥前唐津藩主の寺沢堅高と、島原藩主の松倉勝家は、キリシタン弾圧のみならず百姓からの過酷な年貢取り立てを断行。未納者には過酷な拷問や処刑が行われた。
複数の文書には縛り上げた百姓に蓑を着せて火を放ち、苦しみ転げまわるさまを「蓑踊り」と称したともあり、信仰と生活を虐げられる百姓の恨みは極限に達しつつあった。
また各地でなされた改易や移封で主家を失った浪人も増加しており、藩や幕府への不満を強めていた。
発生
こうした状況にあって、遂に決定的な事件が起きる。
『黒田長興一世之記』によると、寛永14年(1637年)、島原藩口の津村の庄屋・与左衛門は飢饉に起因する年貢の未納を理由とし、臨月の妻を人質に取られた。代官所に連行された彼女は冷たい水牢に裸で放り込まれ、6日の間苦しんだ挙句、胎児ともども息を引き取った。
我慢の限界に達した口の津村の百姓は遂に蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害する。同時に近在の集落に蜂起の一件が報じられ、参加する者の数は瞬く間に膨れ上がった。
こうした中、旧小西家家臣の益田家嫡子・天草四郎(本名:益田時貞)が「神の子」「奇跡の御子」としてカリスマ的人気を集めていた。
こうして旧有馬家・小西家の遺臣が中心となり湯島の会合で島原・天草の民衆が共同して四郎を指導者に仰いで決起する事が決まり、10月25日に有馬村の代官林兵左衛門を殺害した事で乱は始まった。
島原の膨れ上がった一揆軍は反乱を鎮圧しようとした島原藩兵を圧倒し、一時は島原城を包囲するまでに至った。
更に天草四郎も天草の民衆とこれに呼応して蜂起し、唐津藩からの援軍を得て鎮圧にあたった唐津藩冨岡城代三宅重利を本渡の戦いで破ってこれを自刃させ、その勢いのままに天草支配の拠点であった富岡城の一角を占拠するなど落城寸前まで追い込むが、堅固な城と城兵の奮闘により落城には至らなかった。
しかし、幕府の許可なくば他藩に干渉できない状況を利用しての一揆軍のこの優勢も幕府が遂に九州諸藩に一揆鎮圧を命じ、その総指揮官に江戸より板倉重昌を上使として派遣した事により崩れ、それを知った一揆軍は攻勢を中止し撤退を開始した。
冨岡城攻囲から撤退した天草の一揆勢は有明海を渡って、島原城攻囲から撤収した島原の一揆勢と廃城となっていた有馬家の居城・原城跡で合流。使用していた船を破壊してこの城を修復し籠城を断行した。
幕府側の見込みでは、戦闘員・非戦闘員あわせて約37000人とされている。
基本的に籠城戦は城外からの援軍や補給の見通しが立たなければ自滅に等しい作戦であったが、補給については島原・富岡城から奪った糧食に、援軍については全国のキリシタンの決起やポルトガルなどの諸外国が援軍を送ってくれることに期待していたともいわれる。
幕府の対処
ともあれ乱の知らせを聞き、幕府は九州の諸大名に出兵を指示する一方、板倉重昌を総大将として派遣した。
しかし、時の将軍徳川家光に仕えていた柳生宗矩は「重昌を送ったら死んでしまう」と家光に諫言したとも伝わっている。
諫言が史実か後世のこじつけかは不明だが、この諫言はドンピシャリで当たってしまった。
重昌自身は決して無能ではなかったようだが、討伐軍を構成する九州諸大名は外様大名ばかりで幕府に対して好意的でなく、足並みが揃わなかった。また城攻めには三倍の兵力が必要とされるも当初は城兵とさして変らぬ兵数しか揃える事も出来なかった。
そして幕府側総大将だった重昌は小大名(15000石)かつ役職も御書院番頭(将軍の親衛隊長)とさほど高くなかったため、いくら重昌が適確な指示をしても諸大名に軽んじられてはどうしようもなく12月10日、20日の城攻めは失敗した。
芳しからぬ状況に三代将軍家光は側近であり「知恵伊豆」の異名を取る老中・松平信綱を重昌の後任として総大将に任じて派遣。
その知らせを受け、屈辱を感じ、信綱が到着するまでに城を落とそうとした重昌は寛永15年1月1日の総攻撃で無理な城攻めを行い、あえなく戦死してしまった。
新たな総大将として赴任した信綱は、まず忍者を使って城内を調査、情報収集を行う。更に戦国乱世を知る老将の立花宗茂や水野勝成と協議し、兵糧攻めに出た。
また一揆軍が欧州、特にポルトガルが助けに来てくれると信じていると考え、信綱は年が明けた頃にオランダに依頼して原城にオランダ船より艦砲射撃をさせた。一説によるとこの時船はポルトガルの旗を揚げていたとされる。
異国の助力については一揆軍どころか幕府軍内部からも批判が起こり、早々にとりやめとなっているが、一度行っただけでも精神攻撃としては十分であった。
また、これによりオランダは「キリスト教徒が反乱を起こした場合であってもキリスト教徒に味方しない」ことを態度で示した形となり、鎖国下での貿易を許されることにつながった。まぁ、オランダの信仰の中心はプロテスタントでありポルトガルやスペイン(そして経由で布教された島原の抵抗勢力)の信仰するカトリックとは犬猿の仲を通り越して殺し合いに発展しかねないほど険悪だったため、彼らにしてみれば純粋に敵に対して砲撃を加えたにすぎず貿易の為に敢えて原則を曲げたわけではない。
更に信綱は矢文を使って城内との内通者も作り、内部からの切り崩し工作も図った。
また「キリシタンでないにも関わらず無理矢理連れてこられた者は、投降すれば助命する」と触れ回り、内部を混乱させた。
やがて原城内の兵糧は尽き、一揆軍の死体を検分した信綱は、腹の中に海藻しか入っていないのを確認。
このまま籠城戦が長引いた場合、反幕府勢力を勇気づける結果となり、九州各地のキリシタンや幕府に不満な浪人、下手をすれば幕府に対しての敵愾心が強い外様大名たちまでが呼応して反乱を起こす可能性がでてくると考えた信綱は総攻撃を決定する。
悪天候もあり、寛永15年2月28日(1638年4月12日)に総攻撃を決定するが、その4日前の2月24日に、佐賀藩主鍋島勝茂が抜け駆けで攻撃を開始したために、やむなく前倒しで総攻撃を開始することになった。
一揆軍は必死の抵抗を続けたが、消耗は激しく、遂に総崩れとなり、城内には幕府軍の兵士が踏み込む。
信綱の嫡子・松平輝綱の『島原天草日記』では
「剰え童女の輩に至るまで、死を喜びて斬罪を蒙く。これ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門に侵たる所以なり」
と記されている。
老若男女を問わず「でうす」の御許へ行かんと跪き、喜んで死を受け入れるキリシタンの異様な姿に、兵卒は化物でも相手にしているのかと恐慌状態に陥った。かくして城内には大虐殺の嵐が吹き荒れることとなる。
この時一揆軍の死体は掘った穴に投げ込まれ、「邪教を奉ずる者が二度と蘇らないように」大量の石を投げ落として埋めた。後に原城から発掘されたおびただしい遺骨には、まともに揃ったものはひとつもなく、大多数が激しく損傷していたという。
最終的に天草四郎は細川家家臣陣佐左衛門に打ち取られ、遂に乱は鎮圧。原城にはおびただしい数の首級が野晒しに並べられ、見せしめとされた。
ただし実際には幕府軍の総攻撃の際、脱出に成功した者や、投降して殺されずに済んだ者もあったとする見方もある。
戦後処理
乱の鎮圧後、まず信綱は堅高と勝家による領民への過酷な税や年貢・拷問こそが一揆の根本的原因であると幕府に報告した。
そして幕府は一揆の責任をとらせ、勝家は改易として津山藩にお預けとしたが、その後間もなく江戸邸にて農民の遺体が見つかったことが決め手となり、乱鎮圧から5か月後の寛永15年7月19日に勝家を切腹とせず斬首に処した。一国を預かる大名が斬首されたのは、後にも先にもこの一件のみである。
堅高は天草を没収、ただし唐津はそのままとした。本人は蟄居の身となったが、天草没収と生き恥を晒したことで精神を病み、乱鎮圧から9年経った正保4年11月18日(1647年12月14日)に江戸で自害。これにより唐津藩は後継者なしのためお家断絶となり改易となった。
その後天草は幕府直轄領である天領となるが、石高は4万石とそのままであったものの、後に代官であった鈴木重成が表文を残して自刃したこともあり、半分に下げられた。本来以上の無茶な見積もりをされていたのが、ようやく真っ当な石高まで下げられたのである。
前述の抜け駆けを行った佐賀藩主・鍋島勝茂は軍紀違反として閉門を申し付けられている。
この後キリシタンは各地に潜伏。いわゆる隠れキリシタンとして、幕末までその姿を見せないようになった。
とは言え明治になるまでたびたび摘発や密告が行われ、少なからぬ数のキリシタンが強制的に改宗させられ、あるいは殉教している。
江戸幕府にとってはキリスト教の脅威と海外の存在感を脅威として認識する契機となり、以後は鎖国体制を本格化させていった。
さらに「一国一城令」により、破却した城に関してそれまで以上に厳密に破壊されるようになった。
宗教戦争の実際
島原の乱を宗教戦争や宗教弾圧と見なしたり、「幕府対キリシタン」の構図で見る向きは多い。
自身の失政を認めない松倉勝家がキリシタンが主導した暴動と主張し、幕府はキリシタン弾圧の口実に使ったことから、このような見方が定着したとされる。
しかし実際には宗教的面は薄く、どちらかと言えば経済是正を叫んだ暴動であった。
一揆軍は天草四郎など一部のキリシタンを除いて、そのほとんどはキリシタンではない百姓および浪人などの旧支配層が、生き残りのために決起していた。強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかったという。
中には参加を拒否した為に一揆軍に村を襲撃され、村総出で撃退したという記録もある。一揆軍は決して一枚岩の体制ではなかったのだ。
このように、宗教戦争以外の側面が濃いことから、現在のカトリック教会は天草四郎や乱の関連人物を殉教者としては認めていない。
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