ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

甲相駿三国同盟

こうそんすんさんごくどうめい

甲相駿三国同盟とは、戦国時代に武田家、北条家、今川家の三勢力の間に結ばれた和平協定のこと。名前はそれぞれの本拠地である甲斐・相模・駿河の頭文字から。甲・相・駿の順番は文献によって異なる。それぞれの当主が会合したと伝わる場所に因み、『善徳寺の会盟』とも言われる。

概要

参加したのは武田晴信北条氏康今川義元の三人。この三家は領地が隣接していて関係が深く、それぞれの父の武田信虎北条氏綱今川氏親の代から対立と協力を繰り返していた。

しかし息子の代になって状況が変わり始める。

  • 武田家は、甲斐を統一したことで隣国・信濃への侵攻の本格化と、それにともない村上義清ら信濃の反武田勢力を支援する越後長尾景虎(のちの上杉謙信)との抗争の激化が起き、そちらに専念する必要があった。
  • 北条家は、元々関東統一のために東への領土拡大を目指していたのに加え、関東の旧支配層である扇谷上杉家(謙信と関係ない)・山内上杉家(謙信に上杉姓を譲った家)・古河公方やその配下の諸大名との戦いを有利に進めるため、それらを支持していた武田・今川両家を味方に引き入れておきたかった。
  • 今川家は、この時自領の東に位置する北条家とは敵対していたが、西には尾張織田信長とは父・信秀の頃から抗争していた上に美濃には信長の舅の斎藤道三も控えており、東西に敵を抱えるのは好ましくなかった。

こうして三者の利害が一致し、今川家の太原雪斎を中心に同盟締結となった。ちなみにこの同盟は、武田家には太平洋に進出できない、北条家には上洛の道が塞がれたというデメリットがあり、今川家に一番有利だったようである。

関係を強固にするために義元の娘・嶺松院が 信玄の嫡男・義信に、信玄の娘・黄梅院が 氏康の嫡男・氏政に、氏康の娘・早川殿が義元の嫡男氏真にそれぞれ嫁ぐことで、1554年に同盟が締結された。この時の結婚は、政略結婚ながらどれも良好な夫婦仲だったようだ。

なおこの三組のうち氏真と早川殿の夫婦は時流の流れの中で離別することもなく生涯添い遂げ、今川家は江戸幕府下で高家として復権を果たしている。(近年の史料や論文によれば黄梅院は、同盟破綻後もそのまま北条家に残って小田原城で暮らしており氏政と婚姻関係も続いていたが黄梅院が病死した事で死別となった。)

崩壊

一見強力だったこの同盟も、1560年に義元が桶狭間で織田信長に討たれると状況が一変する。義元の死によって三河松平元康が「三州錯乱」と「清州同盟」を経て独立した上に松平家康と改名して織田家と同盟し、遠江では井伊直親(直虎の許嫁、直政の実父)らの反乱である「遠州惣劇」が起こったのである。これらを見た信玄は、上杉家との戦いが安定したこともあり、外交方針を転換して今川領への侵攻を画策しはじめる。反対して謀反を企てた義信を廃嫡(義信は二年後の10月に病死)、氏真は永禄10年6月に甲斐に対して塩止めを行う。また、謙信との同盟関係を模索しはじめる(上杉と北条が対立している事、北条と上杉の戦いで氏真が北条側に援軍を送っている事を踏まえると、危うい行いである)。同年11月に信玄に対して氏真が妹の嶺松院を今川へ帰らせるように要請している。武田は北条家や松平家改め徳川家に今川領の分割を持ちかけた。家康は了承したが、氏康はこの要請を拒否。こうして武田と北条・今川の関係は断絶され、ここに甲相駿三国同盟は崩壊する。

その後

その後、武田と徳川による侵攻を受けた今川家はほどなく滅びた。(逃げ延びた氏真は遠江国へと向かう事になり、氏康は娘婿である氏真と娘の早川殿を保護すべく援軍を出した。)

氏康の死後、武田・北条間の同盟は復活した。

しかし、信玄の死から数年が経過すると武田勝頼(信玄の後継者)と北条氏政(氏康の後継者)の間の同盟が破綻。勝頼は、北条に対抗するために上杉景勝(謙信の後継者)と同盟(甲越同盟)を締結。さらに勝頼は佐竹義重とも同盟(甲佐同盟)を締結し、武田・上杉に佐竹などの大名による北条包囲網を結成した。だが、氏政はこれに対抗するために信長や家康さらに新発田重家東北伊達輝宗蘆名盛氏などと連携し織田・徳川・北条・伊達・蘆名・新発田による武田・上杉包囲網を敷いた。そして1582年に織田・徳川連合軍と共に武田を滅ぼした

しかし、この8年後に北条家は豊臣秀吉による侵攻を受けて滅亡した