戦国時代〜江戸時代初期の武将で九州の戦国武将。主家である龍造寺氏を支えた智勇兼備の名将であり、主君の龍造寺隆信と共に佐賀藩祖として扱われる。
プロフィール
- 生没年:天文7年3月13日(1538年4月12日)〜元和4年6月3日(1618年7月24日)
- 幼名:彦法師丸
- 仮名:孫四郎
- 諱:信安→信真→信昌→信生→直茂
概要
前述の通り諱は度々変わっているが最後の直茂がよく知られている。その他では直茂の前の信生が知られている。ちなみに直茂の諱は龍造寺隆信が没した後の名乗りであるが、本記事では便宜上諱を直茂で表記するものとする。
鍋島氏は応永(1394-1428)以前から鍋島地域を支配してきた宇多源氏佐々木支流だったが鍋島経直には娘しかいなかったことから「筑前守護」少弐教頼の子で経直の外孫経房を迎えているので父系で見ると藤原氏流少弐氏となっている。(異説あり)
子である清久の代から龍造寺氏に仕えるようになった。
戦国時代、肥前の戦国大名にのし上がった龍造寺氏の家臣であり、その立役者で同家20代目当主である龍造寺隆信の従弟にして義弟でもある。 あくまで龍造寺氏の家臣という立場を通していたものの、戦国時代後期の実質的な大名として数えられており、後の肥前佐賀藩の基礎を作り上げた名将として知られる。
彼の著名な子孫の一人に、幕末期の佐賀藩主として先進的な軍事・医療技術(有名なところではアームストロング砲を始めとする新式兵器の自藩での製造や、天然痘根絶を目的とした牛痘法の普及推進など)を導入し、「佐賀の七賢人」の一人としても数えられる鍋島直正(閑叟)がいる。
豊臣秀吉からは天下の三陪臣として、小早川隆景、直江兼続と並んで評された(直茂の代わりに堀直政が挙げられる場合もある)一方、「知恵と大器はあるが大気がない」とも評されている。大気とは野望という意味であり、意訳すれば「強いんだけど自重気味」ということである。他方で後述する関ヶ原での動向を始め、見事な狸親爺っぷりも発揮している。
主君・龍造寺隆信とセットで「龍造寺の仁王門」と称されるくらい仲が良かったが、次第に酒色に溺れていく隆信を諫言したため、次第に仲が悪くなったとも言われている。他方で、生前隆信が長子の政家に家督を譲って隠居した際、三男の後藤家信へ送った遺言の中で、「自分の死後も直茂と相談の上で政家を支えるように」との旨をしたためている。このことから隆信の中では次代の龍造寺家中の有り様として、若輩の政家を直茂が補佐するという構想を抱いていたとも考えられている。
ちなみにネット界隈では「ナベシマン」などと呼ばれている。
生涯
西千葉氏の養子時代
鍋島氏は祖父の清久の代から龍造寺氏に仕えており、また直茂の母は隆信の祖父・龍造寺家純の娘であるなど、血縁の上でも強い結び付きを築いていた。彦法師が4歳となった天文10年(1541年)には、龍造寺氏の主筋である少弐氏の意向により、肥前小城で西千葉氏の千葉胤連(妻が家純の娘に当たる)に養子として預けられる。(ただし、直茂が千葉氏から「胤」の字を偏諱してもらった書状や「千葉」の姓を名乗る書状がないことから本当に千葉氏に養子に出されていたのかは不明。)
しかし天文14年(1545年)に少弐家中での実権を巡り、馬場頼周(息子・政員の妻として家純の孫娘が嫁いでいた)の策略で水ヶ江龍造寺家当主の龍造寺家門(家純の弟)・家泰親子、さらには家純・周家親子ら龍造寺氏の一族の多くが殺害されるという事件が発生。これにより龍造寺氏と少弐氏は敵対関係に転じ、直茂は実父・清房によって養子縁組を白紙に戻す形で実家に戻った。もっとも、養父だった胤連はその後も龍造寺・鍋島に同調し、隠居時には西千葉氏の勢力や家臣団を直茂に譲っている。江里口信常(元々は父・清房の家臣)もその中の一人である。
龍造寺の仁王門
90代の超高齢ながら、子や孫の死もあり水ヶ江龍造寺家当主に復帰していた龍造寺家兼が亡くなると、僧籍に入っていた曾孫の円月坊が家兼に指名され後を継ぎ胤信(のち隆信)と名乗った。また彼の生母である慶誾尼(けいぎんに)が清房の継室になった事により、隆信と直茂は義兄弟の間柄となった。龍造寺氏にとって、清房・直茂父子の存在が重要であると確信した、慶誾尼による半ば押し掛けも同然の縁組であったという。
これ以降、直茂は隆信から絶大な信頼を受ける事となり、後に宿敵である少弐冬尚やその弟・政興を滅亡に追いやる上でも多大な働きを見せている。
永禄12年(1569年)、当時龍造寺氏が従属姿勢をとっていた豊後の大友宗麟の軍が肥前に侵攻。この時直茂はまず隆信に篭城を進言し、同時に安芸の毛利氏に領地の挟撃を要請した。翌元亀元年(1570年)の今山の戦いでは敵方の士気の緩みを察して夜襲を進言、慶誾尼の後押しもあってこの策が容れられると、直茂自らも部隊を率いて敵陣への突入を敢行する。この夜襲により大将の大友親貞(宗麟の従弟または弟)を討たれるなど、混乱に陥った大友軍は潰走を余儀なくされた。直茂はこの大勝を記念し、家紋をそれまでの「剣花菱」から大友氏の用いていた「抱き杏葉」へと改めている。
その後も天正3年(1575年)の少弐氏残党の討滅、翌年の有馬氏・大村氏の屈服においても多大な功績を上げ、天正8年(1580年)に隆信が隠居すると、その後を継いだ嫡男・政家の後見人を任されるなど、引き続き厚い信任を受け隆信と併せて「龍造寺の仁王門」と呼ばれた。
しかし龍造寺氏と鍋島氏との関係にも、次第に変化が生じていく事となる。その最初の契機となったのが翌天正9年(1581年)、隆信や田尻鑑種との共謀による柳川城主・蒲池鎮漣(鑑盛の子)の殺害と、それに続く蒲池一族の討滅である。一連の蒲池討伐の後、隆信の命令で柳川城主に任命され、筑後の国政を担う事となった直茂であるが、これは直茂の手腕を信頼しての委任であったと言われる一方、諫言も厭わない直茂を疎んじた隆信が、大友氏との抗争の最前線でもあった筑後へと遠ざけたとする見解もあり、未だ解釈の分かれるところである。
天正12年(1584年)に島津氏との間で発生した沖田畷の戦いで隆信が討死すると、当初殉死も考えていた直茂は木下昌直や他の家臣たちの勧めもあって肥前へ撤退、残された主君・政家を補佐すると共に島津氏との折衝にも尽力した。島津側からの隆信の首の返還を断固拒否するなど強烈な敵対姿勢を示しつつも無事に講和に漕ぎ着け、合戦での惨敗にもかかわらず好条件での恭順が認められた。
豊臣政権への接近と実権掌握
天正15年(1587年)より始まった豊臣秀吉の九州征伐は、直茂と龍造寺氏との関係において2度目の転機ともなった。
この時、かねてより秀吉と誼を通じていた直茂は、当初島津氏に従って立花山城包囲戦に参加しつつ、秀吉軍の接近を知ると島津と手を切って鞍替えし、秀吉軍の先導役を務めた。また立花統虎と共に肥後南関にて囚われの身であった統虎の弟・高橋統増(立花直次)や統虎兄弟の母親と妹の救出にも当たっている。
その甲斐あって秀吉からは一連の働きを高く評価され、戦後処理において直茂と勝茂父子は龍造寺氏とは別に所領を受け取ると共に、主君・政家に代わって肥前の国政を担うよう命じられた。これ以降、朝鮮出兵における龍造寺家臣団の統率なども通して彼らの直茂への傾倒が深まるなど、龍造寺氏から鍋島氏への実権の移譲が着々と進む一方、肥後における一揆鎮圧を巡って政家が秀吉の不興を買った際に弁明に当たったり、直茂による政家毒殺の企てが噂されると弁明のための起請文を提出して異心のない事を示すなど、あくまでも主家である龍造寺氏を立てる姿勢を示し続けた。
ちなみに、朝鮮出兵の折に当地の陶工らを日本に連行しており、後に肥前にて彼らに陶磁器を作らせている。これが今に伝わる有田焼(伊万里焼)の始まりにして、本邦における陶磁器製造の原点ともなった。
関ヶ原合戦時の直茂
慶長3年(1598年)の秀吉薨去の後、徳川家康と石田三成ら奉行衆との間で対立が生ずると、家康の勝利を予測した直茂は彼に恭順の意を示したが、ここで思わぬ誤算が発生する。息子の勝茂が西軍に属し、伏見城や安濃津城攻めにて主力として参加していたのである。この事態を受けて直茂は、まず尾張方面の穀物を買い占めてその目録を家康に献上、さらに勝茂とその軍勢を速やかに前線から退かせ関ヶ原本戦に参加させない事で、立場の保全を図っている。
ちなみに現在では、『佐賀県史料集成』収録の「坊所鍋島家文書」等の一次史料から直茂・勝茂共に西軍へ与する意志を示していたことが判明しており、こちらの説が主流となっている。勝茂は上杉景勝攻めに渋々向かおうとしていたところを西軍方に引き留められなし崩しに与することになったとされており、直茂も黒田官兵衛との交渉を進めていたが失敗、一方的に断交して西軍に与することを宣言している。
さらにその後の家康側からの要請に応じ、九州各地の西軍諸将の居城攻略にも当たっており、小早川秀包の久留米城や立花宗茂の柳川城を相次いで降伏・開城させた他、実行には至らなかったが島津討伐に向けた準備もしている。この一連の直茂の奮闘が功を奏し、肥前佐賀の龍造寺氏本領は辛うじて安堵される結果となったが、ここでも龍造寺家中で家康から直々に労いの言葉を得た龍造寺茂綱(前述の後藤家信の子)に対して、自身よりも所領を多く与えるなど龍造寺家中への配慮も忘れる事はなかった。
佐賀藩祖として
しかしそうした直茂の数々の配慮とは裏腹に、主君・政家の嫡男で直茂の養子でもある龍造寺高房は徳川氏による政権が確立する中で、江戸幕府に対して龍造寺氏の実権の回復を働きかけるようになった。しかし幕府のみならず、龍造寺信周や龍造寺長信ら隆信の弟や長信の子である多久安順など、その他一門衆も龍造寺氏から鍋島氏への禅譲を積極的に支持。これにより龍造寺氏の遺領を引き継ぐ形で嫡男・勝茂が佐賀藩を立藩、直茂はその「藩祖」として勝茂を後見する形で、藩政に参与する事となった。
この裁定を不服とした高房は慶長12年(1607年)3月、直茂を恨んで夫人(直茂の養女)とともに心中を図るという事件を引き起こしている。高房はその後同年9月にこの時の傷が元で憤死しているが、その間の7月には直茂が政家に対し、高房の行状を非難した「おうらみ状」と呼ばれる書状を送るなど、この件に対する不満を示している。さらに時代が下り寛永11年(1634年)、高房の遺児・季明(伯庵)が江戸幕府3代将軍・徳川家光相手に龍造寺家再興を直訴する騒動が起こっているが、この時は安順が江戸幕府に対して季明に正統性がない(高房の妾腹であること、隆信との近さなら甥である安順自身の方がまだ近いことなどを挙げてい)ことを述べている。
高房、そして政家が相次いで死去する中で、直茂は依然として龍造寺氏やその遺臣への配慮を欠かさぬ一方、藩主である勝茂と共に子息に相次いで支藩を立藩させるなど、家中における彼らの影響力を次第に弱めていった。
元和4年(1618年)、耳の腫瘍が元で81年の生涯に幕を下ろした。激痛に苦しんだ末の半ば悶死に近い最期であった事から、直茂の死は高房の亡霊のしわざではないかと噂され、これが「鍋島家化け猫騒動」の由来のひとつとなった。
フィクションにおける鍋島直茂
戦国無双
武器:薙刀(2) 槍(3以降) 声:江川央生(2Emp) 山田真一(3Emp) 金本涼輔(4)
「おのれ島津…今は勝ちを誇るがよい!だが、この俺が大友家を、そして天下人・秀吉を動かしてきっと貴様らを滅ぼし、領地を取り戻してやる!」(3Empries:龍造寺滅亡より)
「い、要らぬ! なにやら不吉な予感がするわ!」(chronicle:柳川攻防戦)
「味方が中央湿地帯に密集していませんか…。殿、これは危険です…!」(4:沖田畷の戦い)
「殿、お待ちを!戦線が膠着している今、本陣をみだりに動かすなど危険です」(同上)
「天下に轟く智勇、味わってみるがいい!」(4Empriesにおける特殊台詞)
- 概要
モブとして2から登場しているが、大きく目立ったのは3から。
3Empriesでは立花道雪から送られてきた酒を飲もうとする隆信に対して、毒が入っているのでは無いかと疑っていた。(ただし当の隆信本人は道雪が毒を盛るような人物では無いと反論した。隆信の豪胆と直茂の慎重を対比する逸話である。)
その後、沖田畷の戦いで主君・隆信が戦死すると上記の台詞の通り島津に対して大友、豊臣を動かしてまでも滅ぼそうとした。この時のみ、一人自称が「俺」となっている。
chronicleでは化け猫騒動の逸話を反映してか、義弘が猫を進呈しようとした際に不吉な予感があると言って反対した。4では固有武将として登場。味方が中央へ進軍した際に島津の策を見抜くが、隆信からは臆病者や空気の読めぬ男と言われている。
4Empriesでは前作に無かった特殊台詞を引っ提げて登場した。
信長の野望
「武将風雲録」から登場。明智光秀に匹敵する能力値で登場しファンに衝撃を与えた。風雲録では国主になると独立を狙う危険人物だったが覇王伝以降は危険ではなくなった。
戦極姫
龍造寺家の武将として登場。作中における立ち位置は龍造寺のナンバー2であることが多い。
作品によってはヒロインとして登場する。鍋島の化け猫騒動が原因か猫とかかわりのあるキャラとしてして描かれることが多い。
テレビドラマ
「鍋島信生」名義で登場。豊臣秀吉と千利休が黄金の茶室において対峙する場面に出演。
ちなみに曾孫の光茂とその嫡子の綱茂は『水戸黄門』第5部にゲスト出演しそれぞれ森繁久彌と村井国夫が演じている。