プロフィール
生年月日 | 1987年5月16日 |
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死没日 | 1997年6月10日(11歳) |
性別 | 牡 |
父 | フィリップオブスペイン |
母 | キタシバサクラ |
母の父 | ラディガ |
競走成績 | 金沢時代54戦12勝/JRA時代23戦5勝/通算77戦17勝 |
主な勝ち鞍 | 全日本サラブレッドカップ/白山大賞典/北国王冠連覇 |
父フィリップオブスペイン
キタシバスペインの父はオーエンテューダー系種牡馬のフィリップオブスペインである。英国で供用後日本に輸入された。代表産駒は1987年安田記念を制したフレッシュボイスと1992年の高松宮杯(現高松宮記念)を制したミスタースペイン、元祖「百戦錬磨馬」スペインランド(通算103戦5勝)などである。コンスタントに活躍馬を出すタイプではないが年を重ねても総じてタフに走る産駒が多かった。現在、オーエンテューダー系のサイヤーラインは日本では絶滅し英国で僅かに残る程度である。
戦績
(馬齢表記は旧年齢表記)
4歳時(通算8戦1勝)
1990年1月5日に京都競馬場5Rの4歳新馬戦(ダート1200m)でデビューも6着。4戦目で初勝利を挙げるも以降は4戦4着外に沈む。
5歳時(通算13戦3勝)
夏までに2勝を挙げ1500万条件まで出世をするもクラスの厚い壁に阻まれてしまい900万条件に降級。以降は900万条件戦を1勝したもののそこから抜け出せない状態が続く。
6歳時(JRA時代2戦1勝)
1月25日に京都競馬場8R(ダート1200m)を1番人気で快勝した。しかしこの勝利は後にキタシバスペイン事件として世間を騒がせることとなる。
キタシバスペイン事件
レース後の検体採取の結果、キタシバスペインの尿からカフェインが検出された。ドーピングである。捜査の結果、関係者が飼い葉に人間用の栄養ドリンクを混ぜていたことが判明し馬主、調教師、厩務員が競馬法違反容疑で逮捕された。
関係者の処分内容
馬主 | 一定期間の関与停止処分 |
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厩務員 | 制裁金徴収 |
調教師 | 2月で定年の為裁定議定対象外。ただし引退後のJRA関連施設への入場拒否処分 |
そしてキタシバスペインは…
人間の浅はかな発想で「加害馬」となってしまったキタシバスペインだがJRAにはもはや
居場所はなかった。事件後に馬主が変わり金沢競馬に移籍することになった。だが、キタシバスペインはこのまま終わらなかった。この地方移籍こそが逆襲の始まりである。
6歳時(金沢移籍後/通算9戦4勝)
初戦こそ5着に敗れたが3戦目で移籍後初勝利を飾る。元々は芝・ダート問わず短距離戦を中心に使われていたが、逆に移籍後は中長距離戦を中心に使われるようになった。そして、素質が開花したキタシバスペインは笠松に遠征し全日本サラブレッドカップを制し重賞馬の仲間入りを果たした。JRA所属時には重賞どころか特別戦すら一度も勝った事がなかった馬の逆転劇である。
7歳時(通算12戦4勝)
前年に制した北国王冠を連覇するも白山大賞典では3着に敗れる。
8歳時(通算13戦2勝)
年齢的に衰えが見え始めてきた年である。7月31日に開催されたスプリンターズカップで7着に沈み、地方移籍後29戦目で初めて掲示板から外れた。しかし9月25日に開催された白山大賞典
を4馬身差で制し健在ぶりをアピールしている。
9歳時(通算16戦2勝)
9歳に入っても特別戦を制するなど「老いてなお盛ん」ではあったが、次第に掲示板から外れることが多くなってきた。むしろここまで第一線で活躍できる事自体が珍しいくらいであるが年齢からくる衰えはもはや否めなかった。
10歳時(通算4戦0勝)
年明け初戦のペガサス特別こそ2着に入ったものの、以降3戦は着外に沈んだ。最後のレースは8頭立ての8着だったがそれでも2番人気に収まっている。JRA在籍時は特別戦すら勝てずドーピングで移籍を余儀なくされたものの、地方競馬で才能を開花させ引退までに獲得した賞金は1億円超に達した。
引退後
種牡馬になったものの3頭に種付けしたのみで死去。そのうち2頭はいずれも地方競馬でデビューし勝利を収めている。牝馬だったタツノスペインは後に繁殖に上がったが仔は残せなかった。この時点でキタシバスペインの血統は途切れている。
余談
2020年より金沢競馬場では6月に「キタシバスペイン特別」という競走が実施されている。外部リンク
平成から令和と時代こそ変われど、彼の地ではキタシバスペインは今も名馬なのである。