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九二式歩兵砲

きゅうにしきほへいほう

九二式歩兵砲は昭和7年に大日本帝国陸軍に採用された歩兵砲、歩兵大隊に本砲2門を有する大隊砲小隊が付属する為、「大隊砲」の異名を持つ。
目次 [非表示]

概要

九二式歩兵砲は昭和5年頃から日本陸軍技術本部で開発が始まり、昭和7年に十一年式平射歩兵砲十一年式曲射歩兵砲の統合後継砲として日本陸軍に制式採用された歩兵砲である。

昭和12年からの支那事変で初めて本格的に使用され、昭和16年に海軍真珠湾を攻撃して日本第二次世界大戦に突入すると、分解すれば人力でも移動されられる携帯性から、道路状況の劣悪な南方の戦線で大いに活躍した。

日本軍が占領した地域では、そこで編成された現地の軍隊へ、他の日本軍兵器と同じように供給され、戦争が終わり日本軍が撤退しても独立戦争で現地軍の主力歩兵砲として使用された。


昭和7年当時の設計ではM4シャーマン等米英の最新兵器に敵う物ではなくなってしまっていたが、それでも後継の開発に手間取った陸軍では、終戦まで主力歩兵砲として使用され、最後まで日本を守り続けた。

開発経緯

時代大正から昭和に移り、欧州列強の各国大砲は、大正3年に発生した第一次世界大戦の影響もあり、著しく進歩していた。特に野砲や歩兵砲等の支援火器は75口径クラスが一般的になり、また、戦車を初めとする装甲戦闘車両の出現によって対戦車砲というあらたな砲が誕生し、それまでの砲口径37㎜ 砲身長28口径の十一年式平射歩兵砲では明らかに威力不足となっていた。

また、大正デモクラシーによる民主化傾向と宇垣軍縮による軍費削減によって、平射砲と曲射砲を同時に維持することが難しくなっていた。こうして欧米列強に対抗可能な歩兵砲の開発と平射砲と曲射砲の統合を兼ねて、歩兵大隊で運用可能な歩兵砲が求められたのである。


昭和3年に陸軍技術本部にて開発が開始され、昭和5年には試作型の「試製軽歩兵砲」が完成し、千葉県の陸軍歩兵學校にて試験が開始された。

この「試製軽歩兵砲」に対して同学校は以下の報告を陸軍技術本部へ上告している。


「平射歩兵砲と比較して重量は倍加しているものの運動性に大きな遜色なく、曲射歩兵砲と比較すると運動性に劣り形態も大であるので第一線中隊付近に使用するには一考を要するが、敵前中距離にある連大隊長の側近砲としては曲射歩兵砲に優ると判定された。歩兵随伴砲との比較では、射程・弾丸威力においては劣るものの歩兵砲として充分であり、運動性において優り、精度においても優る場合がある、但し対戦車砲として劣ることは免れない」

Wikipediaより一部要約。


以上のように、軽歩兵砲は歩兵大隊長の側近砲として適当であると認められた為、昭和7年3月12日仮制式制定上申、同年7月6日「九二式歩兵砲」として仮制式制定された。

運用

移動時は駄馬1頭で牽引するか、砲架・砲身・車輪等に分解して駄馬3頭で運搬可能であった。さらには、兵士10人で分解して担いで移動することも可能だった。車輪はサスペンションを持たない鋼鉄製車輪で自動車牽引は出来ず、このためトラックの荷台か牽引用のトレーラーに搭載する。

弾薬は5発入りの弾薬箱に収められ重量は30kgあり、兵士1人が1箱を担いで運ぶか駄馬1頭で4箱を運んだ。また専用の砲弾輸送車の開発も進められ、大阪工廠が昭和6年から昭和7年にかけて車両を試作し、完成した1両を陸軍歩兵學校に委託して意見を求めた。続く昭和8年には北満州での実地試験と各師団の意見に基づき修正を加え、翌昭和9年2月に九二式歩兵砲弾薬車として制式化された。これは弾薬箱5箱(計25発)を収容可能な前車と後車から成り、駄馬1頭により牽引された。また前車と後車をそれぞれ人員によって牽引することも可能であり、この場合は車軸両端に曳索を取り付けて牽引の補助とした。全長は4.259m、50発分の弾薬箱を含めた全備重量は512kgであった。

通常の運用では1門につき即応弾として20発が砲と共に前進し、続く弾薬分隊20人とあわせて弾薬定数144発を運んだ。砲本体204kgに対して弾薬870kgと重かったが、わずかな駄馬のほかは多くの場合は徒歩で背負って運んでいた。野砲・榴弾砲・山砲・騎砲・加農・高射砲などを運用する砲兵連隊等の砲兵部隊はトラック砲兵トラクター・輓馬・駄馬など、比較的恵まれた装備を擁していたが、末端の歩兵部隊(歩兵砲隊)は一部の優良装備部隊を除き弾薬輸送を駄馬および人力に頼らざるを得ないため、日本軍は弾薬分隊の人数が欧米にくらべて突出して多い。なお、弾薬分隊に配属される人材は兵役検査で低い評価を受けた体格が良くない者ばかりであったため、兵士の苦労は大きかった。

第二次世界大戦時、弾薬輸送にトラックが使用されていたアメリカ軍・イギリス軍であれば、1個大隊分(砲2門と弾薬)でも3tトラック1台分の荷物にすぎないが、日本軍には負担であった。日本軍が弾薬貧乏と言われ無駄弾を厳しく禁止した背景には、(軍事力以前に国力の低さのため)この程度の小型火砲ですら弾薬輸送の負担に耐えかねていたという問題があった。


性能不足な面がありながらも、本砲は支那事変ノモンハン事件大東亜戦争において、極寒の北満州から広大なノモンハンの平原、中国大陸の急峻な山岳地帯、そして南方に至る様々な場面で常に主力歩兵砲として歩兵の傍にあった。第二次世界大戦後半、連合軍の反攻が始まると日本軍は機関銃や火砲などの重火器を巧妙に隠蔽された陣地(コンクリート製の頑丈なトーチカから単なる洞穴に至るまで)に設置し、本砲も上陸してきた敵軍に対し近距離射撃を浴びせるなど活躍した。アメリカ軍は本砲に一定の評価を与え、鹵獲兵器の使用法を記したマニュアルに本砲を載せておりアメリカ軍が使用することもあった。


余談だが、部隊配備が始まると本砲は歩兵大隊の大隊砲小隊に2門ずつ配備され、「連隊砲(四一式山砲)」とともに歩兵にとって最も身近な火砲となり「大隊砲」の名で親しまれた。その小ささ、砲身の短さなどから九二式歩兵砲を玩具(おもちゃ)に喩える例もあったという。また精密射撃に不向きで、おおよその狙い目に着弾するから「大体(だいたい)砲」という冗談も存在した。

使用弾薬

九二式歩兵砲、牽引姿勢では車軸のクランクは前側に倒される。

  • 九二式歩兵砲弾薬莢 薬莢には単一式のもの(乙)と接続式のものがあり、後者は弾尾と薬頭との間に間隙を有し薬筒を分離しての装薬結合に便利である。装薬は一号50g、二号31g、三号22g、四号17gの4種類が用意されていた。
  • 九二式榴弾 九二式歩兵砲用の榴弾であり、軽易な野戦築城の破壊および人馬の殺傷に用いる。昭和7年に制式化された。榴弾の諸元は炸薬量0.630kg、殺傷半径22m(有効破片密度1個/㎡)。信管には八八式瞬発もしく 短延期信管「野山加」を使用。砲弾重量3.81kg。後に九四式七糎戦車砲の砲弾としても使用された。
  • 九二式代用弾演習用の砲弾であり、形状・弾道性能は九二式榴弾と同一である。1933年に制式化された。信管には八八式瞬発もしくは短延期信管「野山加」を使用。砲弾重量3.81kg。後に九四式七糎戦車砲の砲弾としても使用された。
  • 九五式照明弾 九二式歩兵砲用の照明弾。昭和9年試験開始、1935年にマグナリウムとの比較の結果マグネシウムを主剤に決定し制式を上申した。照明弾の諸元は最大射程2,600m、照明時間20秒、照明光度は約90,000燭光で高度150m以内の曳火射撃に適する。信管には八九式小曳火信管を使用。砲弾重量3.49kg。
  • 九七式鋼製銃榴弾 戦時の弾丸鋼の不足を考慮し、弾体に広く市販の原料鉄を利用できるようにした榴弾。昭和13年に伊良湖射撃場で試験を実施し、性能はおおむね良好で制式を上申した。榴弾の諸元は炸薬量0.370kg、殺傷半径15m(有効破片密度1個/㎡)。信管には八八式瞬発もしくは短延期信管「榴白」を使用。砲弾重量3.92kg。
  • 三式穿甲榴弾 大戦後半より生産配備された成形炸薬弾(タ弾)。装甲貫徹長90mm、砲弾重量3.38kg。
  • 空砲 装薬には一号空包薬を使用する。

性能諸元

砲口径70mm
砲身長790mm
砲重量204kg
砲弾初速197m/s
最大射程距離2,800m
発射速度10発/min
水平射界左右各20°
俯仰角-8~+70°
使用弾種榴弾 照明弾 煙幕弾 タ弾(成形炸薬弾)
総生産数約3,000門(推定)

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