ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

佐伯貴弘

さえきたかひろ

横浜ベイスターズ、中日ドラゴンズにかつて在籍していた、元プロ野球選手。

概要編集

大阪府出身。尽誠学園高、大阪商業大を経て1992年ドラフト2位で横浜ベイスターズに指名されて入団。この年のオフに「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」へチーム名が変更されたため、ベイスターズとして初の指名選手となった。


ルーキーイヤーの1993年から一軍に出場。1995年にはファン選出でオールスターゲームにも出場した。

1996年は自身初の規定打席到達を記録するなど、レギュラーに定着。1998年のベイスターズ優勝の際には中根仁との併用でマシンガン打線の一翼を担い優勝に貢献。

2004年に通算100本塁打を達成、FA権を行使して残留。2005年は全試合に4番として出場。2006年は不調だったが、2007年は2年ぶりの規定打席到達、打率3割と2ケタ本塁打をマーク。

2008年からは自身の不調と内川聖一吉村裕基らの台頭で代打の切り札としての出場が多くなる。2009年は新外国人の不振もあって再びレギュラーになり、規定打席には届かなかったが2年ぶりに100試合出場と2桁本塁打を記録。さらに通算150本塁打も達成した。しかし2010年はわずか10試合出場に終わり、オフに戦力外通告を受けて中日ドラゴンズへ移籍する。


中日では1年のみのプレイ。64試合に出場して打率.202、1本塁打の成績だった。日本シリーズには帯同し、1年後の2012年千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるが不合格となり、2013年2月3日に引退を発表した。

2014年2015年は現役時代の同僚だった監督(捕手兼任)の谷繁元信の要請で、中日二軍の監督兼打撃コーチを務めた。

2016年は一軍守備コーチを務めたが、同年8月9日、監督の谷繁とともに休養(事実上の解任)を発表。



人物編集

横浜DeNAベイスターズ内藤雄太は、佐伯にあこがれてプロ野球選手になった。

2006年読売ジャイアンツ戦、同点の9回一死満塁の場面で前進守備を取っていたにもかかわらずファーストゴロでバックホームせず先に一塁を踏んでしまったことで三塁走者の生還を許し、実況に「何のための前進守備だ!」と叫ばれたことがある。

阪神タイガーストラッキーとは仲が良く(?)、試合前などによくプロレスごっこをやっていた。その後諸事情でトラッキーの中の人は阪神から解雇されたが、その中の人を佐伯の鶴の一声で横浜が拾ったのがブラックホッシー誕生のきっかけらしい。

関連記事

親記事

引退したプロ野球選手一覧 いんたいしたぷろやきゅうせんしゅいちらん

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 2018

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました