概要
大阪府出身。尽誠学園高、大阪商業大を経て1992年ドラフト2位で横浜ベイスターズに指名されて入団。この年のオフに「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」へチーム名が変更されたため、ベイスターズとして初の指名選手となった。
ルーキーイヤーの1993年から一軍に出場。1995年にはファン選出でオールスターゲームにも出場した。
1996年は自身初の規定打席到達を記録するなど、レギュラーに定着。1998年のベイスターズ優勝の際には中根仁との併用でマシンガン打線の一翼を担い優勝に貢献。
2004年に通算100本塁打を達成、FA権を行使して残留。2005年は全試合に4番として出場。2006年は不調だったが、2007年は2年ぶりの規定打席到達、打率3割と2ケタ本塁打をマーク。
2008年からは自身の不調と内川聖一、吉村裕基らの台頭で代打の切り札としての出場が多くなる。2009年は新外国人の不振もあって再びレギュラーになり、規定打席には届かなかったが2年ぶりに100試合出場と2桁本塁打を記録。さらに通算150本塁打も達成した。しかし2010年はわずか10試合出場に終わり、オフに戦力外通告を受けて中日ドラゴンズへ移籍する。
中日では1年のみのプレイ。64試合に出場して打率.202、1本塁打の成績だった。日本シリーズには帯同し、1年後の2012年に千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるが不合格となり、2013年2月3日に引退を発表した。
2014年と2015年は現役時代の同僚だった監督(捕手兼任)の谷繁元信の要請で、中日二軍の監督兼打撃コーチを務めた。
2016年は一軍守備コーチを務めたが、同年8月9日、監督の谷繁とともに休養(事実上の解任)を発表。
人物
・横浜DeNAベイスターズの内藤雄太は、佐伯にあこがれてプロ野球選手になった。
・2006年の読売ジャイアンツ戦、同点の9回一死満塁の場面で前進守備を取っていたにもかかわらずファーストゴロでバックホームせず先に一塁を踏んでしまったことで三塁走者の生還を許し、実況に「何のための前進守備だ!」と叫ばれたことがある。
・阪神タイガースのトラッキーとは仲が良く(?)、試合前などによくプロレスごっこをやっていた。その後諸事情でトラッキーの中の人は阪神から解雇されたが、その中の人を佐伯の鶴の一声で横浜が拾ったのがブラックホッシー誕生のきっかけらしい。