概要・人物
1999年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズに指名され入団。
一軍デビューは3年目の2002年。しかしこの年に大ケガを負ってしまい、2003年は一軍出場なし。
2004年に一軍に復帰すると、2005年には二軍で打率3割を超えるなど活躍し、この年の日本シリーズにも2番・セカンドで出場したこともあった。
2006年も二軍では活躍したが、一軍では打率が2割を超える程度でレギュラー獲得はならず。翌2007年はTSUYOSHIのケガから出場機会は増えたものの、打撃不振でレギュラー定着はならず。
2008年には根元俊一や田中雅彦の台頭も許し、さらにキャンプ中には打球が頭を直撃するなど苦難の一年となった。
2009年も林昌勇からデッドボールを受けタンカで運ばれるなど災難は絶えなかったが、この年は規定打席不足ながら打率3割をマークし、キャリアハイの成績を残した。
2010年は内野の守備固めとして1年間一軍フル帯同。チームの日本一に貢献した。
2011年、2012年は特に目立つことなくシーズンを終えている。2014年に戦力外通告を受け、現役引退。マリーンズ・アカデミーのコーチに就任した。
現役時代の思い出として、マリーンズの2度の日本一の瞬間にグラウンドに立っていられたことを挙げている。
また、折れたバットが頭を直撃、(上述したが)外野でキャッチボールをしていたら打球が頭を直撃など不運なケガが多いことからなんJの男村田スレでは塀内、謎の変死という扱いを受けられている。またの名を暗黒王子。