概要
北朝方の政権を担う足利直義に従う数少ない武将。
本人曰く、中先代の乱において、関東庇番の面々に付き従う名もなき雑兵として従軍していたらしい。
この時、亜也子が石塔範家を奮闘の末討ち果たす姿を美しいと感じたらしく、後述するようにプロポーズをする程惚れ込んだ、との事。
初登場は中先代の乱より二年後の杉本寺城の攻防戦であり、この時は斯波家長の配下として登場、金砕棒(六尺棒の両端を棘付きの鉄板を貼り合わせてコーティングした鈍器)を振るい、先陣を切って進撃する際の勇猛果敢さと撤退戦時の頑健さで時行達逃若党や彼らが付き従う北畠顕家率いる奥州武士道を散々手こずらせた。
特に撤退戦時の頑健さは石津の戦いに至るまでの一連の西国での戦いでも遺憾無く発揮されており、その意味では時行とは別方向で撤退戦を得意とする武将と言える。
土岐頼遠ほどではないが身長が高いうえ、剣を交える亜也子にプロポーズするほど豪胆な性格をした武将であるが、なによりも目立つのは兜からはみ出るほど大きいリーゼントである。
ちなみに、この「リーゼント」は現代人が考える髪型としてのリーゼントではなく、特注の超大型目庇(兜の縁に装着された頭上及び両目を守るための部品)を隠すためのものであり、どこぞの居合い斬り使いが言うところの「異形なれども考え抜かれた珠玉の戦装束」と言える。
足利尊氏に対する忠誠と武士の利害を第一に考える高師直と、足利尊氏に対する忠誠(=北朝)に対する忠誠を並び立たせることを考えた末で政を行う足利直の対立深まりつつあったが、武士の利益を表に出す師直に対し、あまりににも理詰めな性格であるため直義に人望はなく、従う武将は直常の他、関東庇番の数少ない生き残りである吉良満義及び上杉憲顕とその兄・重能、直義の養子・直冬など数えるほどであった。
そして、師直派のひとりである猛将・土岐頼遠が足利方が奉じる治天の君・光厳上皇の牛車に矢を射かけたあげく樹上に放り投げる暴挙を起こした。
事件を知った直義は激怒、兄・尊氏の許しを得ると、みずから追討軍を率いて逃亡する頼遠を追った。追いつかれた頼遠は奮戦するものの、度重なる戦の傷を受けたことで直常に致命傷を負わされただけでなく、すべての槍衾を防ぐことができないほど衰えていた。
北朝方の主戦力である頼遠が討たれたことに高師直・師泰兄弟は激怒、両派の対立はやがて尊氏をも巻き込む大乱へと発展するのだった。