データ
武力 | 100 | 蛮性 | 98 |
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知力 | 62 | 忠義 | 50 |
政治 | 42 | 混沌 | 90 |
統率 | 90 | 革新 | 77 |
魅力 | 26 | 逃隠 | 59 |
特製:極巨躯恵体 | 武力70%上昇、器用40%下降 |
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技能:バグマスター | 兵忠誠度が強制的に100%になり、10ターンの間何をしても下がらない。また使用中は頻繁に画面がフリーズする |
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技能:一人高名弾 | 兵1人を生贄に着弾範囲攻撃 |
技能:美濃骨霰 | 最大12人を生贄に範囲攻撃(最大角360°)バグマスターと併用しないとさすがに兵忠誠度がゴソっと下がる |
マーキング・パターン | 桔梗 |
鬼としての称号は「羅刹鬼」
概要
実在の人物は、土岐頼遠を参照。
美濃国(当時の岐阜県)の守護大名を務める武将であり、青野原(現在で言う関ヶ原)にて北畠顕家を迎え討つために出撃する。
ナレーションにて、認識をバグらせる武将として紹介されており、そのめちゃくちゃな人間性は武力・人格合わせて、殆ど化け物のそれである。
トラバサミあるいはサメの顎を模したかのような独特の装飾が付けられた大袖や喉輪、そして兜の前立てに加え、顔を覆う面頬も鬼面のような形状をしている禍々しい雰囲気の甲冑を身に纏い、その面当てからは欄々と光る眼だけが覗いているという本当に悪鬼か何かとしか思えない、この人達とはまた違った意味で人間離れした出で立ちが特徴。
一方で、そんな凶悪なイメージとは対照的にその素顔はすっきりしたとした細顔に長髪であり、見ようによってはむしろイケメン(それでも時行によると「なんの特徴もない顔」)だが、目はまるで死人のように生気が無く、それでいてほとんど無感情かつ無表情というどこか不気味なキャラクターとして描かれている。
人物
人並み外れた巨体と、そこから繰り出される超人的な膂力を最大の特徴とする武将。
その巨体は馬二頭分に跨って初めて進撃できるほどであり、その膂力は大男が渾身の力を振り絞ってやっと持ち運べる大鉞の10倍の重さの大太刀を小枝のように振り回すほど。
だが、最大の異常性(バグ)は、人間を人間扱いしないこと。そして何よりも、周囲の人間もそれをごく当然のこととして受け入れる、尊氏とは別次元のカリスマ性である。
頼遠はその余りの膂力故に、部下である周囲の武士を使い捨ての武器や道具として使用しており、周囲の人間もそれを当然の事として無関心に受け入れている。
しかも「使い捨て」と言うのも、戦場の窮地に見捨てるとか、殊更に奴隷の様に扱うとか、そう言う次元ではなく、結束の例えで三本の矢を折る逸話の例として、近くにいた足軽をえびぞりにして背骨を折り、そのまま近くにいた三人の足軽を重ねて三人丸ごとえびぞりにして背骨を折って殺す。と言う、パッと見ギャグとしか思えない所業で人間を使い捨ての道具にする。戦場においても、雑兵を敵陣に投げつけ、骨や鎧の欠片を四散させる即興の爆弾としか見ていない。なお猶子の長山頼元や精鋭騎馬隊は使い潰すのは惜しむものの、あくまで変えが難しくもったいない程度の考え。
北畠顕家の軍に対抗する軍議においては、小笠原貞宗や上杉憲顕と言った実力者を差し置いて自ら総大将となることを宣言、さらに公正だという理由でどの布陣を担当するかくじ引きで決めることにした。しかし引きたい5番(最も西に位置する陣)が見えないので、その人並外れた膂力をもってくじをもった武士の指を引き裂いた。こうしてお目当ての5番を引き顕家本隊を討つ役目に就く。
この余りにも支離滅裂な人間性と人智を超えた膂力を持った頼遠に、貞宗は恐れ(恐怖というよりも訳が分からないと言う驚愕が強い)をなして彼と近寄る事を避け、残りの見えてるくじから1番を選び、頼遠から遠く離れた位置に陣を敷いた。
活躍
暦応元年(1338年)、奥州に拠点を築いていた顕家が、尊氏打倒するため多賀城から上洛を始める。
大軍を率いる顕家は鎌倉から出陣した元・関東庇番の斯波家長らを破り鎌倉へと進軍したため、尊氏の嫡男・義詮らは逃亡、鎌倉は顕家軍に占拠された。
顕家軍にはかつての得宗・北条高時の次男・時行をはじめとする多くの武士団が合流し、軍勢はさらに肥大化し東海道を攻め上がる。
一方、足利軍は美濃に集結するが一部を除いて戦意は低く、老練の名将である貞宗らは後述の策で撃破を試みようとした。
そのなかで例外的に戦意が高かったのが頼遠である。
彼は貞宗の提唱した「北畠軍を素通りさせた後、京都の足利軍と連携して挟み撃ちにする」挟撃策を退けると、人物の項目にあるめちゃくちゃな手法で総大将となり、戦いに出陣する。
つづく「青野原の戦い」では自身の膂力を頼みとした人間爆弾攻撃で顕家軍をズタズタに文字通り破壊。この戦いで七百余の兵を率いて顕家軍の大軍を迎え撃ち、獅子奮迅の働きで顕家軍をほぼ壊滅させ、顕家を敗死寸前の窮地へとたたきこんだ。
足止め役となって直接対決を挑んできた時行と弧次郎もその圧倒的戦闘能力で瞬く間に追い詰めており、二人もこの時は自分たちの死を意識したほど。
最終的には雫の策により攻撃を制限され残弾(兵士)を消耗させられたところを逃若党・結城宗広ら奥州諸将・戦線に復帰した顕家により辛うじて撃退される。
戦いには敗北したものの顕家軍の損耗は著しく、青野原を抜けた先で待ち構えていた高師直らが率いる足利本軍を前に正面突破を諦めさせる結果となった。
顕家からは、「己の武でしか語れぬ武士は…一つの戦場の主にしかなれないのだ」、「ああいう輩はいずれ戦場の外で自滅する」と評された。
顕家はその後和泉で戦死したが彼の言葉はやがて現実のものとなる。
活躍(19巻以降・単行本化前ネタバレ注意!)
1340年の貞宗と時行2人の最後の戦いとなる大徳王寺城の戦いに北朝方の援軍として最後に参戦。
土岐勢来たるの報を受けた時行率いる南朝方は城の防御も意味を成さない彼の人間爆弾攻撃と、自軍の疲弊もあって即時撤退を選択。
土岐勢の到着を前に宗良親王と時行による太鼓での偽装で貞宗率いる北朝軍を欺き撤退に成功する。
空となった城を検分する貞宗と頼遠の元に頼遠宛の置文があったことを報告がされる。
「土岐頼遠 死此鼓上」(土岐頼遠 この太鼓の上に死す)
これは中国春秋時代の斉と魏の「馬陵の戦い」において斉の兵法家・孫臏が宿命のライバルだった魏の総大将・龐涓を破り自刎に追い込んだ時の計略のオマージュであり文字通り一矢報いようと狙う時行からのメッセージであった。
戦いの最中に師父・貞宗と語らいその弓術の極意を会得した時行の矢は狙い通り、鎧と大袖を貫いてかつて顕家が穿った右肩を射抜く。
致命傷には到底及ばないものであったが、一直線に崖下へ落下させられ時行の完全撤退を許すことになる。
終戦後、貞宗からは
「古傷と栄華が怪物を鈍らせた」
「貴様ももう以前ほど無敵ではないわ」
「生き方を改めい」
と忠告されたのだが…
怪物だった者の末路(以下さらにネタバレ)
その頼遠は大徳王寺城の戦いから約2年、京を揺るがす大事件を引き起こす。
1338年、尊氏が征夷大将軍となり、名実共に室町幕府が発足。その裏では幕府誕生に貢献した頼遠や佐々木道誉達婆娑羅大名の増長は留まるところを知らなかった。
1342年、笠懸からの帰還中に深酒を煽りながら洛中を歩いていた郎党一行はその結果に上機嫌で盛り上がっていた。しかし本人のみは2年前、時行につけられた矢傷の影響で右腕に麻痺が残っていたことで笠懸の結果が悪かったことに凄まじい苛立ちを感じヤケ酒を呷っていた。
さらには直後の部下の発言により、理解の外のバグであった自身が、自分にとっては人間爆弾に過ぎない雑魚が自らを理解できるぐらいに衰えたことに苛立ちは頂点に達する。
折の悪いことは重なるもので、よりにもよって治天の君・光厳上皇の牛車と鉢合わせになってしまう。
上皇の護衛に咎められ、下馬を求められたところでついに堪忍袋の尾が切れた。
「『院』ではない 『犬』の聞き間違いだ」
「土岐は犬に道を譲らず 射てしまえ犬追物だ」
号令と共に郎党は牛車を射掛け、トドメに自身が上皇が乗られたままの牛車を持ち上げ牛ごと木の上に放り投げるという乱暴狼藉を働いてストレスをぶつけに行った。
室町幕府や足利将軍の正当性を保障する存在である光厳上皇に狼藉を働いたことを知った征夷副将軍・足利直義は当然激怒。朝廷からの強い求めと背景を考え、後醍醐天皇が崩御してから政務全般にやる気のない兄・尊氏から処遇を丸投げされたことで大逆罪による土岐氏追討と頼遠本人の死罪が決まる。
追われる身となり逃げていた頼遠だったが、ついに直義とその配下に捕捉される。
直義を侮っていた頼遠は意に介さず逆に直義配下の槍部隊を何本来ても爪楊枝だと吐き捨て自らの膂力で蹴散らすものの、衰えからか前後左右からの連撃を食らい傷は増える一方。
それでもなお蹴散らそうとするも、時行の矢で麻痺の残る右側から桃井直常から浴びせられた一槍が体を貫き、それを皮切りに止めの連撃を食らうことになった。
直義「一糸乱れぬ『槍衾』の前には個の武も無力」
「私が創るのはな 土岐」
「お前のような婆娑羅の要らぬ世だ」
怪物から人の域にまで落ち、貞宗からの不器用な忠告を受けてもなお、それでも怪物であることを諦め切れずに人間を軽んじ、自らの武でしか語ろうとしなかった「人間」の最期は普通の人間の「集」の力による、以前の顕家の予言通りの戦場の外での無惨な自滅だった。
頼遠が直義に処断されたことを知った高師直は足利の主戦力を消されたことに激怒。
室町幕府の内紛は直義と師直の2人とその配下に留まらず、北朝方の武将、皇族、果ては南朝方をも巻き込んで日本史上最悪の兄弟喧嘩へと加速していく。