小学校1年からサッカーを始め、少年時代から静岡県内では天才サッカー少年と呼ばれた。
中学校2年時には東海選抜に選出され全日本選抜中学生サッカー大会で優勝、3年時には日本ジュニアユース代表に選出されシンガポールで開催されたライオンシティカップに出場し得点王にも。
高校は、静岡県立清水東高等学校へ進学したが当時越境進学するケースは少なく「故郷を捨てる裏切り者」と新聞に叩かれた事も。
それでも1年時からセンターフォワードのポジションを獲得すると全国高等学校サッカー選手権大会静岡県予選では9得点、本大会では5得点を挙げる活躍を見せ準優勝する。
高校卒業後の1986年に、静岡第一テレビの子会社静岡第一ビデオ(現・SDTエンタープライズ)に入社。当時の社長の計らいもあって勤務の傍ら、静岡第一ビデオからSDT東京支社への出向社員という扱いで日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団。
入団初年度からポジションを獲得すると、1986-87シーズンに11得点を挙げる活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。
1987年には日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選に出場。これらの活躍で武田は、1987-88シーズンのJSLのPRポスターのモデルに選ばれるなど新たなスター選手として扱われたが成績が伸び悩んでしまう事もあったが1989-90シーズンには13得点を挙げ復活を果たし、翌1990年に代表へ復帰。同年にブラジルから三浦知良が加入すると三浦とのコンビで1990-91、1991-92シーズンのリーグ連覇に貢献した。
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い読売クラブがヴェルディ川崎と改組された後も、三浦、ラモス瑠偉、北澤豪らと共に中心選手としてチームを支え黄金時代を築いたが日本代表ではハンス・オフト監督の下では高木琢也や中山雅史といった同年代の選手に比べ出場機会は少なく、控え選手としてベンチを温めることが多かった。
「ドーハの悲劇」と呼ばれたW杯アメリカ大会のアジア最終予選・イラク戦では試合終盤の81分に中山と交代で出場するも、判断ミスがロスタイムでの失点につながり非難を浴びた。
その後、1994年を最後に招へいされなくなった。
1996年、武田は出身地の浜松に隣接する磐田市のジュビロ磐田に移籍したのを皮切りに、一旦ヴェルディに復帰後、京都パープルサンガ、ジェフユナイテッド市原、ヴェルディ川崎、スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)、と渡り歩き、2001年に東京ヴェルディ1969に3度目の復帰を果たすが同年引退。
引退後は日本テレビでサッカー解説者を務め、タレントとしてバラエティ番組や旅番組などに出演している。
プレースタイルはスピード・フィジカル・テクニックなどには特筆すべき点はなかったが、ポジショニングの上手さやゴールへの嗅覚は非常に優れており、仲間からのパスをはじめ、仲間のシュートミスしたボール、敵のパスミスに素早く反応してゴールを奪ったことから「ごっつあんゴーラー」とも言われた。
またファッションはイタリアの影響をかなり受けているが私生活ではいまだ独身。