経歴
地元の大谷高校から社会人野球・熊谷組へ移ると、都市対抗野球大会で好成績を残した。1993年オフのドラフト会議にて、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)を逆指名し2位で入団。
石井琢朗と1・2番コンビを組み、当初は相手の先発投手の左右で1・2番を入れ替えていたが後に2番に固定。そしていわゆるマシンガン打線の上位の打順で活躍し、権藤博監督時代の1998年には同球団の38年ぶりの日本一に貢献した。
森祇晶監督初年の2001年、戦力補強の兼ね合いで種田仁・山田博士との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍したが、故障の影響で実績を残せず2002年に酒井忠晴とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍した。2004年に現役引退。
2006年シーズンからは古巣・横浜にて外野守備・走塁コーチ、打撃コーチを歴任。谷繁元信監督に呼ばれる形で2014年シーズンからは中日に移り、外野守備・走塁コーチ、打撃コーチを担当。監督やコーチ陣がコロコロと変わるなか、彼は珍しく1つの球団に長期に渡り在籍し続けていた。
2023年シーズンからはオリックス・バファローズに育成チーフコーチとして在籍。
エピソード
- 現役引退後も現場から離れる事が一度もないという、珍しい事例。しかしコーチ在籍時のチーム状況は、そのほとんどが(何故か)万年Bクラスである点を度々ファンに指摘されていた。「Bクラス請負人」…
- …が、オリックスでは育成チーフコーチとして選手の打撃守備の底上げに貢献。2023年は「二位以下に10ゲーム以上差をつける」という圧倒的な戦績で三年連続のリーグ優勝を果たした。一方、中日ドラゴンズは打撃や守備が軒並み悪化し4連勝なしの二年連続最下位に沈んだため、「波留コーチがブチ切れて『目を覚ませもっとお前ら』発言をしたのは当然」「横浜・中日ではドラフト戦略に失敗し運が悪かっただけ」「無能なのは別のコーチ」という評価に改まっている。
- マシンガン打線の主力として闘志むき出しのプレーから、「ハマの核弾頭」「突貫小僧」と呼ばれた。