概要
1975年10月13日生まれ。
船橋市立船橋高等学校から1994年にジェフユナイテッド市原に入団。1995年からレギュラーとなり、主にボランチとして活躍。同年U-20日本代表として1995 FIFAワールドユース選手権に出場し、センターバックとしてチームの準々決勝進出に貢献した。翌1996年にはアトランタオリンピックのアジア予選を突破し、日本の28年ぶりの五輪出場に貢献。本大会のメンバーにも選出された。しかしナイジェリアとの試合でスタメンの田中誠の負傷退場によって急遽出場するもオウンゴールを犯してしまい、結果的にこの1失点が響き2勝しながらもグループリーグ敗退となった。同年のレギュラーシーズンは怪我などもあって出場機会が減少し、1997年にアビスパ福岡へ、1998年にセレッソ大阪へ、1999年にJ2・アルビレックス新潟へ移籍。2001年シーズンの主将に就任。以後チームの中心選手として活躍し、献身的なプレーで2003年のチームのJ1昇格にも大きく貢献した。その後2005年に徳島ヴォルティスへ移籍。2006年9月からザスパ草津へ期限付き移籍を経て2007年に完全移籍。2009年からは神奈川県社会人サッカーリーグのSC相模原で監督兼選手としてプレー。2010年限りで退団し、現役を引退した。
2011年から2012年まで水戸ホーリーホックのヘッドコーチを務めた。
2013年にザスパクサツ群馬の監督に就任。2014年シーズン終了をもって群馬の監督を退任した。
2014年12月、2016年リオデジャネイロオリンピックを目指すU-21日本代表のコーチに就任した。2017年からは2019 FIFA U-20ワールドカップを目指すU-18日本代表のコーチに就任。2020年1月付けで日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフの契約を満了する。
2020年から水戸ホーリーホックの監督に就任すると発表された。
2022年をもって水戸ホーリーホックの監督を退任することが発表された。
2023年に清水エスパルスのヘッドコーチに就任。4月にゼ・リカルドの後任として監督に就任。
人物・エピソード
草津時代の元チームメイトの秋葉信秀は従弟にあたる。
2002年から2007年までJリーグ選手協会の副会長を務めた。
2016年リオデジャネイロオリンピックにU-23日本代表コーチとして帯同、大会直前の練習でメンバーが足りなくなったためボランチとして現役に混ざってプレーした際、衰えていない技術を見せてFW浅野拓磨を「すごい選手だったんですね」と驚かせた。
2022年8月20日のレノファ山口戦での敗戦後に行われた監督インタビューで選手たちの熱量の弱さやメンタリティーに対してブチギレ。だが、3日後の大分トリニータ戦での勝利後の監督インタビューでは「This is Mito-HollyHock!」と叫び、中2日で改善した選手たちを涙ぐみながら讃えた。
この一連の出来事で彼の知名度が急激に上昇。水戸サポやJ2クラブのサポーターに留まらず、J1クラブのサポーターなどJリーグ全体で彼の名が知られることになる。
清水時代ではマスコットと共にインタビューを受けることもあり、よくJリーグ公式チャンネルにインタビューの様子が切り抜かれている。
つまり、今や彼はJリーグ屈指の名物監督なのである。