プロフィール
経歴
岡山の関西高校から城西大学へ進学し、大学在籍時には第1回世界大学野球選手権日本代表として活躍するも、4年次に故障してシーズンを棒に振り、ドラフト指名はされなかった。その後三菱自動車岡崎に入社。三菱自動車岡崎では1年目に「第35回IBAFワールドカップ日本代表」で5番打者として活躍し銅メダル獲得に貢献するも、翌年に本社の不祥事発覚で三菱自動車岡崎も活動自粛を余儀なくされ、2年目はほとんど実績を残せずに終わる。2004年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから4巡目指名を受け入団するが、このアマ球界の経歴からドラフト指名時には「悲運のスラッガー」とも呼ばれていた。
ロッテ時代は右の代打の切り札として左の代打の切り札大松尚逸と併用されていた。2010年に同じ右打ちの外野手の荻野貴司や清田育宏の加入や、新監督(当時)の西村徳文が前任のボビー・バレンタインとは反対にスタメンを固定する方針を取ったことなどで出番が減少。指名打者でのスタメン出場はあったが目立った結果を残すことはできなかった。
2011年に金銭トレードでオリックス・バファローズへ移籍。2015年シーズン終了後に戦力外通告を受け、11月に埼玉西武ライオンズの入団テストを受けて合格した。2016年シーズン終了後に再度戦力外通告を受け、現役を引退することになった。
プレースタイル
2013年3月時点では日本プロ野球に所属する野手で唯一の左投右打の打者であった。元来は右利きであるが本人は「気付いたら左投げだった」と語っている。