薬の街道修町
大手製薬会社の約40社(本社含む)がこの界隈に集中しています。
道修町にある、少彦名神社(神農さん) の例大祭「神農祭」には、大手製薬会社の偉い方々(社長や会長など企業のトップ)が大集結し、お参りし、疫病退散・無病息災をお祈りします。
なぜ薬の街になったのか
薬種問屋が道修町に集住し始めたのは、寛永年間(1624~44)に堺の小西吉右衛門(現・ボンドのコニシ株式会社)が薬種屋を開いて以降ですが、
八代将軍・徳川吉宗が1722年(享保7年)紀州から江戸に帰る途中大坂で病を患ってしまった。侍医が八方手を尽くしたが思わしくない状況に…そんな時、道修町から捧げられた煎じ薬が良く効き大いに喜びました。それに恩義を感じだ吉宗は、道修町の薬種問屋に特別な権限を与えました。
その権限とは『日本で流通する全ての薬の適性検査をして値段をつける権利を与える』(江戸幕府の厚生労働省的な役割を与えられた)ということでした。
そのため、日本で扱われる薬は一度道修町に集まり、品質保証されてから全国に流通することになりました。(富山の薬売りも、道修町で仕入れた薬・原料を全国に売っていました。)
当時の薬種問屋の名前:田辺五兵衛(現・田辺三菱製薬)/武田長兵衛(現・武田薬品工業)/塩野_義三郎(現・シオノギ製薬)
砂糖
砂糖は明治時代、大阪では『堺筋』という隠語で呼ばれていました。それは、砂糖は薬として輸入されていたため(とても貴重だったので食用としてでなく薬として)、長崎港に届いた砂糖は、一度堺筋の道修町に一度全部集められていたからです(大正時代には砂糖問屋が約200軒あった)。