概要
大正時代・昭和時代初期の童謡詩人。山口県長門市出身。2歳下の弟は劇団若草の創設者である上山雅輔(かみやま がすけ、本名は上山正祐〈うえやま まさすけ〉)。存命時より西條八十などの大御所から彼女の才能に目を付けられていたものの薄幸で短い生涯を終えたことから長らく知名度が低かったが、みすゞの詩のファンの尽力で作品が広まり再評価が進んだ。
代表作に「わたしと小鳥とすずと」「大漁」「こだまでしょうか」など。
生涯
1903年4月11日、本屋を営む一家の三人兄妹の真ん中(唯一の女児)として誕生。幼い頃に父親を亡くしため母子家庭に育つも、本に囲まれていた環境から勉強が得意で、非常に温厚な性格の持ち主であった。
20歳の頃より母親の仕事を手伝うため下関市へ移住して詩を書き始め、『婦人画報』や『金の星』などの婦人誌や児童誌に投稿するようになる。西條八十から高く評価されたことを機に文人との交流が深まり、24歳の若さで「童謡詩人会」に入会し、たった2名の女性会員のうちの1人となった(もう1人は与謝野晶子)。
プライベートでは、23歳の時に実家の本屋の番頭と結婚して一人娘・ふさえが生まれるが、夫が風俗店に入り浸っては浮気を繰り返したことが原因で家族に煙たがられるようになったのを契機に家族間で孤立。夫からは創作や文人との交流を制限されるなど厳しい束縛を受けていた。
1930年3月10日、夫との離婚に伴う、ふさえの親権を巡るトラブルに疲弊して睡眠薬を飲んで自殺を図り、26歳の若さでこの世を去った(なお、みすゞの遺書に書かれた「娘は夫に渡したくない。母が育ててほしい」という要望に従って、ふさえは母親に引き取られ、夫は下関を追われた後、別の女と再婚した)。
彼女の死により、作品が注目される機会はほとんど失われ、これ以降も埋もれたままになると思われていた(※第二次世界大戦の少し前に下関出身の日本共産党党員が、みすゞの詩に感銘を受け、ヒューマニズム的観点から評価して世に広めようとしたが、反響は下関周辺の一部に留まった)。
没後の再評価
そんな中、童謡を愛する一人の青年により転機が訪れる。
当時早稲田大学に在籍していた青年・矢崎節夫は、図書館から借りた本を呼んでいる最中、みすゞが描いた詩「大漁」に感動し、彼女の詩に関心を持つようになる。更には出版社のアルバイトで、佐藤義美(『犬のおまわりさん』の作詞家)から引き取った原稿に、みすゞの詩が載っており、みすゞの生涯や原稿について簡潔に教えてもらった。そこで矢崎は西条の親族に連絡を試みるも相手にされず失敗に終わった。
大学卒業後、創作童話や童謡、子供向けの偉人伝などの執筆をする傍ら、矢崎はみすゞの詩を引き続き研究し続けた。当時はみすゞの詩がまとめられた作品集も自費出版のみとみすゞに関する資料が少なかったため非常に難航したが、下関に移住していた友人のツテで、矢崎はみすゞの遺族の協力を得て、雅輔との対面を果たし、みすゞの全作品の原稿を提供された。
そして、矢崎はこれまで断片的であったみすゞの全作品を世に広めるべく、様々な出版社を渡り歩いた末にみすゞの全集刊行を実現させる。この全集に収められたみすゞの詩がメディアで朗読されたり、教科書などの教材に取り上げられたりするようになった。こうして、現在もみすゞの詩は多くの読者を魅了し続けている。