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概要編集

19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの競走馬種牡馬

1900年のイギリス三冠馬となったが、非常に狂暴な上、狡賢いことで知られた。


プロフィール編集

生年月日1897年
英字表記Diamond Jubilee
性別
毛色鹿毛
セントサイモン
パーディタ
母の父ハンプトン
競走成績13戦6勝
管理調教師リチャード・マーシュ

生涯編集

競走馬時代編集

1897年、オーナーブリーダーでもあるプリンス・オブ・ウェールズ、後のイギリス国王エドワード7世の営む生産牧場にて生を受けた。

ちょうどこのころ、ヴィクトリア女王が在位60周年を迎えており、ダイヤモンドジュビリーという名はこれを記念したものである。


父親は19世紀末に競走馬として活躍(生涯戦績は10戦10勝、うち1戦は非公式試合)した後、種牡馬としては1889年~1904年にかけて常に成績がTOP5(うち1890~1896年、1900~1901年は英国チャンピオンサイアーに輝いている)に入っている上に、後世のサラブレッドの発展に貢献した事で知られるセントサイモン(『サンシモン』と呼ばれる事もある)である上、実兄に同じく競走馬として大活躍、種牡馬としても数多くの重賞馬や子孫拡大に貢献したパーシモンフロリゼル(共に母親がパーディタ)がいる。尚、兄弟全て馬主は後の英国の国王エドワード7世である。



生涯戦績は13戦6勝で、主な勝ち鞍は……



がある。


引退後編集

引退後は種牡馬として1902年にサンドリンガム王立牧場で、1906年には南米アルゼンチンのラス・オルティガス馬牧場で供用。英国では種牡馬として目立った活躍は無かったものの、アルゼンチンではサンシー(ジョッキークラブステークスプリンスオブウェールズステークス優勝)やモロク(1921年のカルロスペレグリーニ大賞優勝)、アス・デ・エスパダススマッシャー(時期不明だが共にナシオナル大賞《別名・アルゼンチンダービー》優勝)、リカルテ(時期不明だがウルグアイ三冠を達成)等の数多くの重賞馬、またラストリーズンカンパナゾムスタファ等、隣国チリでリーディングサイアーに輝く種牡馬を輩出。1914~1916年、1921年に4度リーディングサイアーに輝き、一時期ながら南米では一大父系を形成した。


日本にも流れるダイヤモンドジュビリーの血統編集

産駒の内ダイヤモンドウエッディングは1909年に日本(当時唯一の国立牧場である、青森県七戸にある奥羽種畜牧場)に渡り種牡馬としてバンザイレッドウヰング等、主に帝室御賞典(現在の天皇賞に当たる重賞レース)優勝馬を数多く輩出(更に子孫には1938年の東京優駿や1939年の春の帝室御賞典を制したスゲヌマ、1969年の菊花賞を制した他、36戦13勝の戦績を残したアカネテンリュウ、牝馬二冠《桜花賞優駿牝馬》を制覇、1974~1975年にかけて3歳と4歳の最優秀牝馬として輝いたテスコガビー、同時期に1975年の有馬記念を制したイシノアラシがいる)、リーディングサイアーランキングでも2位に入る程のサラブレッド拡大に貢献した。


全盛期のダイヤモンドジュビリー伝説編集

 輝かしい血統と戦績、そして後継馬を残している本馬であるが、特筆(???)すべきは気性の荒さで、大変な気性難としても高名なセントサイモンの、これまた数多くいる気性難揃いなセントサイモンの産駒の中でも最悪の部類に入り、世界広しとは雖もダイヤモンドジュビリー以上に気が荒い馬は居ないとまで言われているという。どれ位のものかといえば……、


  • 気性について端的にあらわした言葉が悪魔の気性
  • 馬丁(馬の世話や口取りをする人、現在で言う厩務員)の指を食い千切るのはまだ軽い方な位に扱い辛い。
  • そんな気性なものだからまともに扱える者は極めて少なかった。
  • 激しい気性でまともなレースにならない事も多く、レース中にレースそっちのけで騎手を振り落とそうとしたりパドックでは見物人を蹴飛ばそうとしたりスタート前やレース中に騎手を振り落として暴走したりと、最早ロデオで使った方が良いとまで言われるくらい無茶苦茶な暴れ馬で、2歳時は6戦して僅か1勝に終わる。騸馬にしようにも停留精巣だった為当時の医学では去勢が出来なかった。
    • 但し、前述の勝ち鞍の通り翌1900年には7戦5勝を挙げて本来の実力を発揮した。
  • セントレジャーステークスでは中々ゲートインせず20分も暴れ回った末に勝利している
  • 大抵の騎手はまともに乗れず、挙句の果てに踏み殺されそうになったりした為、程無く騎手の誰もが乗るのを嫌がるようになり、やむなく多少は信頼関係を築けていた担当厩務員のハーバート・ジョーンズ(抜擢当時19歳)を乗せてクラシックに挑む有様だった
    • その結果、担当厩務員が三冠ジョッキーになるという珍事が起こった。とはいえジョーンズ氏はそれ以前にも騎手としてレースを勝った経験はあり、後には英国王室の専属騎手にまで出世している
  • 引退後、アルゼンチンに渡ってからも性格は全く改善しない
  • ある時体調を崩し、その凶暴性と危険性から薬を与えられないので棒に薬を塗って目の前に差し出し噛みつかせた
  • 馬房に迷い込んだ浮浪者の腕を食いちぎろうとした
  • 脱走して近くの町に逃げ込んだ際に行く手を遮ろうとした男子生徒達に怒り狂って、その輪に突撃した(その後も暴走を続けて最終的に駅で捉えられた)

等、数々の逸話と悪名が伝わっている。

その烈火の如き性格に加え、用心深さと狡猾さまで兼ね備えていた為、本馬の制御は最期を迎えるまで困難を極めた

つまり結論を言えば、ダイヤモンドジュビリーはどこぞの金色の暴君白いアレよりも120億倍性質が悪い馬という事になる


というか、父セントサイモンからして騎手に「こいつは馬じゃない! 煮えたぎった蒸気機関車だ!」と言われたほどの凶暴さで、他の産駒たちもダイヤモンドジュビリーほどではないにせよ、多くがその凶暴性を受け継いでいた。

そしてセントサイモン系は父系こそ衰退したものの、ダイヤモンドジュビリーらの活躍によってその血は世界に広まり、現在存在する全てのサラブレッドはセントサイモン由来の遺伝子を10%前後持っているとされる。

そうなると金色の暴君や白いアレのような馬が現れるのも無理はないというか、大体こいつらのせいではないだろうか。


ちなみに全兄のパーシモンは頑固で神経質という点では気性難ではあったが、父親やダイヤモンドジュビリーのような攻撃性はなく、むしろ温厚で従順な部類だったらしい。



余談編集

漫画のこちら葛飾区亀有公園前派出所の第87巻第3話「迷調教師・両津!の巻」の回で、競馬ゲームで両津勘吉が育てている「リョーツダイオー」は両津同様に言う事も聞かずに我儘で調教師に噛み付いて負傷させる、レースのスタート直後にレースそっちのけで騎手を振り落とし、観客席の方に向かって暴れ回るというシーンがあるが(加えて収賄罪で騎手が警察に逮捕されただけではなく、馬までもが傷害罪で逮捕されるというおまけまでついている)、ダイヤモンドジュビリーの場合はそれらをほぼ全てリアルでやってのけている。ついでに両津同様異性には目が無く勝手に厩舎を抜け出し牝馬厩舎に入っている。


手の施しようがない暴れ馬とはいえ、競走馬・種牡馬としての功績は偉大であり、後の世にはその名を冠した「ダイヤモンドジュビリーステークス」という競走も誕生している。


関連タグ編集

1900世代 競走馬 種牡馬 気性難

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