概要
競走成績はそこそこであったが良血のため種牡馬となり、早熟でスピードに富む短距離馬を輩出し好成績を挙げた。
しかし日本で産駒テスコボーイがリーディングサイアーとなり、「第二のテスコボーイ」を求めた日本の生産者に産駒を買い占められ、イギリス本国ではプリンスリーギフト系は稀少な血統となってしまった。日本以外ではウルグアイに残っている。
プロフィール
性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 鹿毛 |
父 | ナスルーラ |
母 | ブルージェム(母父:ブルーピーター) |
生産者 | アルファー・オールナット |
馬主 | ヴィクター・サスーン |
調教師 | ノエル・マーレス |
生涯成績 | 23戦9勝 |
略歴
1951年
イギリスの実業家アルフレッド・アーネスト・オールナット所有の牧場に誕生。
父は大種牡馬ナスルーラで、プリンスリーギフトの生まれた年にはアメリカの名門クレイボーン・ファーム(ケンタッキー州)に移籍しており、イギリスでの最終世代であった。
母のブルージェムは6戦3勝だったが、第二次世界大戦によるセントレジャーステークスの中止で三冠馬になりそこねたブルーピーターを父に持っていた。
1952年
セリに出され、実業家のエリス・ヴィクター・サスーン卿により落札された。サスーン卿の祖父は阿片を中国で売りさばいてアヘン戦争の火種となったデイヴィッド・サスーンである。ニューマーケット近郊のイヴ・スタッドで馬主活動をしていたが、この年にノエル・マーレス調教師と専属契約を結び、有力馬主となっていった。プリンスリーギフトもマーレス師に預けられた。
1953年
競走馬としてデビュー。クリアウェルステークスに勝利したものの成績はそこそこで、シーズン終了後にサスーン卿はプリンスリーギフトを売りに出したが最低競売価格に届かなかった。
1954年
前半は短距離のハンデキャップ競走路線を進む。
戦前から活躍するゴードン・リチャーズ騎手(4,870勝)を鞍上にディットンスプリントに勝利するが、リチャーズ騎手はその後骨盤の負傷で引退し、これが最後の勝利であった。
後半は定量競走路線に転向。
新鋭レスター・ピゴット騎手(ダービーステークス9勝)を鞍上にチャレンジステークスに勝利。
1955年
チチェスターステークス、ハンガーフォードステークスに勝利。ポートランドハンデキャップでは斤量130ポンドを背負いながらレコード勝ち。現役引退となる。
1956年
種牡馬となり優秀な成績をおさめるが、数多いナスルーラ後継種牡馬の中では目立たなかった。
1961年
産駒のフロリバンダがキングジョージステークスに勝利。
1963年
産駒のテスコボーイがクイーンアンステークスに勝利。
1967年
イギリスの種牡馬ランキングで2位となる。
1968年
産駒のソーブレスドがジュライカップ、キングジョージステークスに勝利。
産駒のバーバーがリッチモンドステークスに勝利。
産駒のテスコボーイが日本に輸出される。
1969年
産駒のバーバーが日本に輸出される。
1971年
産駒のファバージが日本に輸出される。
1972年
1973年
死去(22歳)。
1974年
産駒のテスコボーイが日本でリーディングサイアーとなる。
1977年
ファバージ産駒のハードバージが皐月賞に勝利。
オーストラリアで種牡馬になっていた産駒のボイズィーボーイが日本に輸出される。
1978年
日本の競走馬生産者の間にプリンスリーギフト・ブームが起き、子や孫を手当たり次第に輸入したが、結局残ったのはテスコボーイの血統だけだった。
1984年
ボイズィーボーイ産駒のカツラギエースがジャパンカップに勝利。