ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

プリンスリーギフト

ぷりんすりーぎふと

イギリスの競走馬・種牡馬。ナスルーラの後継種牡馬として好成績を挙げていたが、日本の生産者に産駒を買い占められ本国では希少な血統となってしまった。
目次 [非表示]

概要編集

イギリス生産・調教の競走馬種牡馬

競走成績はそこそこであったが良血のため種牡馬となり、早熟でスピードに富む短距離馬を輩出し好成績を挙げた。

しかし日本で産駒テスコボーイリーディングサイアーとなり、「第二のテスコボーイ」を求めた日本の生産者に産駒を買い占められ、イギリス本国ではプリンスリーギフト系は稀少な血統となってしまった。日本以外ではウルグアイに残っている。


プロフィール編集


略歴編集

1951年

イギリスの実業家アルフレッド・アーネスト・オールナット所有の牧場に誕生。

父は大種牡馬ナスルーラで、プリンスリーギフトの生まれた年にはアメリカの名門クレイボーン・ファームケンタッキー州)に移籍しており、イギリスでの最終世代であった。

母のブルージェムは6戦3勝だったが、第二次世界大戦によるセントレジャーステークスの中止で三冠馬になりそこねたブルーピーターを父に持っていた。


1952年

セリに出され、実業家のエリス・ヴィクター・サスーン卿により落札された。サスーン卿の祖父は阿片を中国で売りさばいてアヘン戦争の火種となったデイヴィッド・サスーンである。ニューマーケット近郊のイヴ・スタッドで馬主活動をしていたが、この年にノエル・マーレス調教師と専属契約を結び、有力馬主となっていった。プリンスリーギフトもマーレス師に預けられた。


1953年

競走馬としてデビュー。クリアウェルステークスに勝利したものの成績はそこそこで、シーズン終了後にサスーン卿はプリンスリーギフトを売りに出したが最低競売価格に届かなかった。


1954年

前半は短距離のハンデキャップ競走路線を進む。

戦前から活躍するゴードン・リチャーズ騎手(4,870勝)を鞍上にディットンスプリントに勝利するが、リチャーズ騎手はその後骨盤の負傷で引退し、これが最後の勝利であった。

後半は定量競走路線に転向。

新鋭レスター・ピゴット騎手(ダービーステークス9勝)を鞍上にチャレンジステークスに勝利。


1955年

チチェスターステークス、ハンガーフォードステークスに勝利。ポートランドハンデキャップでは斤量130ポンドを背負いながらレコード勝ち。現役引退となる。


1956年

種牡馬となり優秀な成績をおさめるが、数多いナスルーラ後継種牡馬の中では目立たなかった。


1961年

産駒のフロリバンダキングジョージステークスに勝利。


1963年

産駒のファバージエロールステークスに勝利。

産駒のテスコボーイクイーンアンステークスに勝利。


1967年

イギリスの種牡馬ランキングで2位となる。


1968年

産駒のソーブレスドジュライカップ、キングジョージステークスに勝利。

産駒のバーバーリッチモンドステークスに勝利。

産駒のテスコボーイが日本に輸出される。


1969年

産駒のバーバーが日本に輸出される。


1971年

産駒のファバージが日本に輸出される。


1972年

テスコボーイ産駒のランドプリンス皐月賞に勝利。


1973年

死去(22歳)。


1974年

産駒のテスコボーイが日本でリーディングサイアーとなる。


1977年

ファバージ産駒のハードバージが皐月賞に勝利。

オーストラリアで種牡馬になっていた産駒のボイズィーボーイが日本に輸出される。


1978年

バーバー産駒のカネミノブ有馬記念に勝利。

日本の競走馬生産者の間にプリンスリーギフト・ブームが起き、子や孫を手当たり次第に輸入したが、結局残ったのはテスコボーイの血統だけだった。


1984年

ボイズィーボーイ産駒のカツラギエースジャパンカップに勝利。


関連タグ編集

54世代 競走馬 種牡馬

関連記事

親記事

54世代 ごじゅうよんせだい

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました