曖昧さ回避
- 関東地方を流れる一級河川。
- 日本人の苗字、1987年にノーベル生理学・医学賞を授賞した利根川進が有名。
- ヤングマガジン連載の漫画カイジの登場人物の利根川幸雄。pixivに限らず、二次元界隈では利根川は彼を指すことが多く、pixivにおける投稿作品もほとんど彼に関連するものである。
ここでは1について説明する。
概要
群馬県北部の三国山脈より発して関東平野を東南方に流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境で太平洋に注ぐ。流路延長322kmは日本第二、流域面積では約1万6,840平方キロメートルで日本第一の大河。通称、坂東太郎。
河川の名称としての歴史は古く、「万葉集」にも
「利根川の川瀬も知らす ただ渡り 波にあふのす逢へる君かも」
と詠まれている。
末は銚子の海に入る
みよや白帆の絶間なく
のぼればくだる賑を
利根川東遷事業
現在の大河の姿からは想像できないが、利根川下流のかなりの部分は自然の流路ではなく、江戸時代以降に人為的に開削・拡幅された姿である。かつて南流して東京湾に注いでいた利根川を、東流させて太平洋に直接注ぐように変えたのが「利根川東遷事業」だが、東遷は江戸時代前期から大正時代まで何段階にも分けて行われ、その経緯は非常に込み入っている。
戦国時代までの利根川は埼玉県行田市付近から会の川と浅間川の2つに分流して南下し、再度合流して現在の古利根川の流路を流れ、荒川(現在の元荒川筋を流れていた)を合わせて現在の中川、隅田川の流路をたどり、入間川(現在の荒川を流れていた)と合流して江戸内海(東京湾)に注いでいた。
徳川家康が関八州を支配して以降、江戸を洪水から守り水運の便をはかるため、利根川東遷と荒川西遷に着手。まず利根川を東流させ(会の川・浅間川締め切りと新川通開削)、渡良瀬川に合流させて下流を太日川(かつての渡良瀬川下流部)に接続する。また荒川を入間川筋に移して利根川と分離した。
ついで常陸川(現在の利根川本流の関宿より下流)へとつながる赤堀川(現在の利根川本流の渡良瀬川合流地点〜関宿区間)を開削する大工事が行われ、赤堀川〜常陸川を通じて利根川は太平洋に注ぐようになり、さらに逆川(現在の江戸川の最上流部)を開削することで江戸湾と太平洋を結ぶ水運が整った。利根川東遷/荒川西遷は当時としては未曾有の大事業であり、近世の土木技術の発展と徳川政権の強力な指導力とによって初めて可能になったものである。
が、利根川東遷の当初は赤堀川・常陸川の川幅も狭く(現在、利根川のこの区間の川幅は200m以上あるが、当初は20mにも満たなかった)、江戸川が利根川の本流とみなされていた(当時は江戸川を「利根川」と表記した資料も多い)。
水運を主な目的にしていた利根川東遷が、治水対策の色合いを強めるのは江戸時代中期ごろからで、幕府は江戸近郊の水害を防ぐため赤堀川を拡幅するとともに江戸川への流量を制限し、常陸川方面に多くの水を流すようになった。これにより、江戸川ではなく常陸川・赤堀川が利根川の本流とみなされるようになっていく。
明治から大正にかけて水害対策に加えて足尾銅山の鉱毒を東京に流さないために江戸川への流量が減らされ、利根川下流(旧赤堀川・常陸川区間)の川幅がさらに広げられる。そして大正時代に権現堂川(茨城県五霞町と埼玉県の間にある渡良瀬川の旧河道、逆川と合流して江戸川となる)が締め切られて利根川の大半の水が太平洋に注ぐようになり、現在の流路が確定した(利根川東遷事業の完成)。
しかし、今度はそのしわよせで利根川下流の水害が激化し、対策として川幅をさらに広げるとともに川底の浚渫が行われたが、これによって利根川に海水が遡上するようになり、周辺の農村は塩害に苦しむことになった。この問題は1971年に竣工した利根川河口堰によりいちおうの解決をみた。