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白村江の戦い

はくすきのえのたたかい

日本が中国、朝鮮と戦った古代の合戦。読み方は「はくそんこうのたたかい」とも。
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概要編集

古代日本(当時はまだ国と呼ばれた)が朝鮮半島で行った合戦。


滅亡の危機に晒された朝鮮の百済国を救うため、百済を滅ぼした新羅および中国の王朝と戦った。ようするに1000年前の朝鮮戦争である。


朝鮮半島西部にあった白江という川の河口付近を白村江と呼んだ。「ハクソンコウ」もしくは「ハクスキノエ」と読む。決戦はこの地で行われたとされる。白江は現在の韓国錦江に比定されている。


歴史的背景編集

3世紀以来、ヤマト王権は朝鮮半島南部の伽耶(現在の韓国、慶尚南道と全羅南道)という小国家群を領土としていたとされ、朝鮮半島情勢に外交上の大きな関心を持っていた。7世紀の当時、唐王朝が西部(現在の韓国、忠清南道、全羅北道)を拠点にしていた百済に攻め入り、東部(現在の韓国、慶尚北道)を拠点とする新羅がこれを支援して660年に百済は滅亡した。


しかし唐軍主力が帰国すると、鬼室福信ら百済の残党が反乱を起こした。斉明天皇7年(661年)、倭国は百済を支援することを決め、倭国に滞在していた百済の王子扶余豊璋を帰国させる。さらに阿倍比羅夫らが率いる救援軍をつけて渡海させ、斉明天皇自らも筑紫に行幸している。斉明天皇は筑紫で急死したが中大兄皇子が引き継いで遠征の指揮を執った。


経緯編集

倭国軍は百済南部から文武王率いる新羅軍を追い払うが、百済内部で豊璋が鬼室を謀反の咎で殺すなど内紛が発生する。そこに劉仁軌率いる唐軍が到着する。天智天皇2年(663年)8月、白村江河口に集結していた唐・新羅連合水軍を倭国・百済連合水軍が襲う。しかし結果は大敗であり、亡命を望む百済遺民を連れての帰還を余儀なくされた。


影響編集

中大兄皇子はこの間ずっと即位をせずに筑紫で指揮を執っていたが、大敗を聞いて西日本各地に防衛施設を建設する。大宰府には水城という城壁が設けられ、香川県に今も残る屋嶋城は当時築かれた山城である。また北九州には防人という守備兵が交代で常駐することになった。


この影響で国家体制の変革に迫られ、「日本」という国号も制定された。


関連項目編集

火の鳥 太陽編:冒頭で描かれる。阿倍比羅夫が主人公(百済の王子)に保護され、日本に向かう。

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