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武士の編集履歴

2014-03-30 22:55:06 バージョン

武士

ぶし

武士に関連するタグ。

概要

「もののふ」とも読む。武士とは、平安時代中期(10世紀)から明治時代初期(19世紀)にかけての日本に存在し、国家の公的武力を担う共同体の成員のことを指す。


武士内部でも身分は細分化されており、上級武士と下級武士の身分差が非常に大きい。家格や役職のほか、官位や家柄などで表される複雑な序列がある。武士は支配者層は普通に将軍と呼ばれ、貴族との関係も深い。だが


武士のもとで働いた武家使用人(中間・小者など)や足軽は庶民の家に生まれた者も多く、足軽の世襲化が進んだ江戸時代にも武士には入れられないことが多かった。


とは、平安時代において、下級官職を持つ役人の事で、のちに武士とほぼ同義語になった。


平安時代

※以下、武士に関する事項のみ。その他の事項は各時代の項目を参照。

前期には、軍の兵士は軍団への徴兵で、士官は官僚となった貴族で確保していたため、まだ武士と呼べる存在はいなかった。

その後、朝廷の軍事活動が下火になり、その一方で地方の有力者がしばしば治安を乱すため、対抗手段として有力者やその従者による弓騎兵を主体とした機動力の高い部隊で治安維持を行うようになる。

また、比較的下級の貴族が地方に土着して、役所(国衙)の役人(官人)や荘園の管理者(下司など)となり武装するようにもなった。

また、朝廷の貴族の中にも、軍事関係を家職とする家系が現れる。

……このように複雑な過程を経て武士が発生したため、その起源についても学者の間で諸説ある。


ただし、武士の上層部が下級貴族である事には変わりなく、当時は「貴族」と「武士」は対立する概念ではない。


そして、地方での有力者間の抗争や、中央での貴族間の政争を経て、後期に桓武平氏の一族である伊勢平氏が覇権を握り、平清盛が初の武家政権である平氏政権を築き上げる。


なお、僧兵は武士ではなく、実務担当の僧侶(堂衆)が武装したものだが、のちには次第に武士との違いが小さくなる。


鎌倉時代

平氏政権を滅ぼした源頼朝の勢力が、貴族としての家政機関を原型として鎌倉幕府を樹立する。初期には東国など国内の一部にしか勢力が及んでいなかったが、承久の乱でそれまでの最大勢力であった院(上皇・法皇とその近臣)に対して優勢になり、全国的に力を及ぼすようになる。


当時の武士は、幕府の将軍に仕える「御家人」と、その他の武士に分かれていた。ただし、御家人でない武士にも、末期の元寇を契機に幕府の支配力が及ぶようになる。


平安中期からこの頃までの武士は、大を着て太刀を持ってに乗るという、一番古典的なイメージの姿をしている。


南北朝室町時代

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、武士も朝廷で一括支配する事を試みたが、武士に対する軽視が災いして、足利尊氏北朝を擁立して離反してしまう。尊氏が開いた室町幕府は、南朝と戦うため(と、味方の武士の離反を防ぐため)に朝廷(北朝)の支配権を幕府側に次第に吸収していき、貴族や寺社に仕えるごく少数の武士を除き、すべての武士を支配下に置くようになる。


当時の武士は、各国を支配する守護大名の支配下に置かれる事が多かったが、幕府に直属する「奉公衆」なども存在した。また、庶民の富裕層が家来を引き連れて武士化する事も多くなる。

 武士の装備も従者を率いた集団戦寄りになり、鎧も徒歩に適した胴丸などに変わる。

高師直


戦国時代

守護大名は次第に幕府のコントロールを離れ、または守護代・国人などに打倒され、戦国大名が現れる(ただし、国人の勢力が乱立していた地域も多い)。下剋上の時代ではあったが、武士の勢力は家臣団次第でもあったため、武士以外からのし上がった者は非常に珍しい(その希少な例が豊臣秀吉斎藤道三も父からの二代がかりでようやく一国を支配できた)。


当時は庶民も普通に武装していたため、武士と庶民の境目が一番あいまいだった時代かもしれない(ただし、単に私的に武装して徒党を組むだけの者は武士と認識されなかった)。なお、この時代に登場した足軽は、それまでの武士の従者と同様に、正規の武士には含まれない。火縄も用いられるようになり、鎧が徒歩戦闘に適し防弾性能をそなえた当世具足に変わる。


江戸時代

江戸幕府が成立して、武士が「百姓」「町人」と並ぶ身分として確定された。


……と言い切れれば楽なのだが、武士も「将軍」を頂点として、その下に、大きな領地を持つ「大名」・将軍直属の「旗本」「御家人」・大名や旗本に仕える武士(将軍から見ると「陪臣」だが、大名並みの領地を持つ者も含む)・武士に入れられない「足軽」・その下の「武家奉公人」があり、公家や寺社に仕える武士もいた。そのほか、武士と庶民の中間的な扱いを受ける「郷士」や、主君を持たない「浪人」も存在した。


武士の装備は戦国時代のものを概ね引き継ぐが、実際の戦争がない時代が続き、官僚及びその予備軍としてのみ存在し続けるうちに、戦力としての質は下落を続けていた。侍の存在意義である戦闘がほぼなくなったため武士としての哲学を構築する必要に迫られ、「武士道」が生まれた時代でもある。

揃い踏み


幕末~明治時代

幕末には、戦国時代とあまり変化のない装備では西洋列強の軍に対処できない事が明らかになり、幕府や西国諸藩は軍事改革を行う。その過程で一部の藩では、下級武士の出身者が功績を上げ、軍に庶民出身者を大量導入するに至り、武士の存在意義である「戦う人」というステータスにひびが入る。


戊辰戦争では、従来の身分制度では対応できず、下級武士に新政府や改革の進んだ藩の実権を握られる。多くの藩で登用された庶民出身者が戦争や政治で活躍するようになった。


そして版籍奉還により、すべての武士は家禄を(公債を付与される代わりに)取り上げられ、廃藩置県で大名も藩主の座を失う。大名や新政府の高官などは華族となったが、その他の圧倒的多数は、士族という名称を与えられたが特権は与えられず、実業家、官僚、軍人などに転身するか、なすすべもなく没落するかを強いられた。この時点をもって武士は歴史上の存在となる。

武士は明治以降実業に手を出す人も多く、三菱グループを作った岩崎弥太郎などと様々な会社で創業者が出る一方、失敗した人もいる。良くも悪くも武士は現代の基板になっているとも言える。

LAST SHOUGUN


関連タグ

大名 旗本 御家人 足軽 浪人 野武士

弓矢和弓) 日本刀) 火縄銃) 

甲冑 装甲

貴族 騎士

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