概説
男娼は世界中の社会において何時の歴史時代にも存在した。この点は、女性が春をひさぐ売春婦が地理的・歴史的に遍在したと同様な事情がある。売春宿は古代ギリシアにおいてすでに個人営業の者と娼館に属する者が存在したが男娼の場合も同様なことが云える。「娼館」は通常、売春婦が置かれていたが、ときに男性同性愛者のために男娼を置いていることがあった。特に、男娼を専門に抱える娼館もありこれは「男色楼」ないし「男娼館」と呼ばれる。
歴史的な概観
古代ギリシャ
古代ギリシャは少年愛の発祥地だけあり、少年・青年同士の性愛が社会体制になるほど盛んであり、一般的であったらしい。少年売春宿が公然と存在した。そして残されているそれ系の伝記もどの文明よりも桁違いに多かった、オリュンポス神々でさえふけっていた設定なのだし。同様に男娼を売り物とする娼館も公然と存在していた。男娼になるのは主に戦いに負けた都市国家から奴隷として買われた容姿の優れた少年だったようだ。(性奴隷)
ローマ帝国
ローマ帝国では同性愛の関係はギリシャ文明ほど公認されていなかった、キリスト教化する以前のローマ皇帝では上記のギリシャ文明や東方世界(オリエント)へのあこがれから美男を寵愛するものもいた。元首政時代の爛熟期には、文化の融合が生じるとともに、様々な風俗や性的慣習なども入り込むため娼館、客の多様な性的嗜好に対応するため様々な年齢の娼婦を置くと同時に同じように多様な年齢の男娼も置いた。元首政時代のローマの元首でスキャンダルがあった人物としては、大まかに(アウグストゥス)・ティベリウス・カリグラ・ネロ・ガルバ・オト・ドミティアヌス・トラヤヌス・ハドリアヌス・コンモドゥス・ヘリオガバルス・カリヌスなどである。
しかし全員が男好きだったわけではなく、ローマ皇帝の皇祖アウグストゥス・アントニヌス・ピウス・マルクス・アウレリウスにはそういった『好み』の文献は残されていないといわれているが長い年月で資料が紛失した可能性が高い、(アントニウス・ピウスは絶対ないと確信されている)マルクス・アウレリウスはどちらかというとハドリアヌスに愛されていたので愛人の方に近いが、かれ自身は異性愛者寄りだった可能性が大である。
神殿
個人レベルでの男娼も存在しまた神殿売春とも関連して古代ローマやオリエント世界にも共通するが聖なる神殿娼婦が存在する一方で神殿男娼も存在した。
キリスト教普及期ローマ帝国
キリスト教では同性愛は『神への反逆』でしかなく。禁忌とされたのでキリスト教を導入した後期ローマ帝国では同性愛は厳禁されもちろん公的に処罰された。この価値観は一応近代ヨーロッパになるまで継続される。(もちろんその一線を乗り越えようとする強者もかなりいた。)
しかしキリスト教でも侍者などが美少年に限られていたので間接的に権力者の寵愛は受けていた可能性はある。
日本
古代〜平安時代
日本においては古くから歌や踊りを披露する芸人が、売春に従事し、男娼もまた存在した。寺院の稚児や、武士のあいだの男色の相手は、売春ではないが、その周縁に、春をひさぐ者が存在した。特に朝廷や公家・武家の間では大いにはやった。
稚児
人身売買が公然と存在し、事実上の奴隷制が存在した中世には、売春のための稚児の少年を抱えた親方が、客に少年を一夜売ることで、利益を挙げる商売も存在した。仏教では稚児となった少年が僧侶などに春を売ることを暗黙的に承認する稚児灌頂制度があった。
若衆歌舞伎
江戸時代に歌舞伎における女性俳優が売春行為の温床となったためこれが禁止された。これに対し若い男が女役を演じる若衆歌舞伎が起こったがここでも売春行為が行われたため禁止された。
野郎歌舞伎、陰間
これに代わって野郎歌舞伎が興隆し歌舞伎芸人は若い者も年長の者も総じて客の男色の要望に応えて身を売った。陰間である
江戸の吉原を中心に、何種類もの形態で遊女が登場したように男娼の世界においても陰間茶屋の高級色子から、地方まわりの男娼芸人(陰間)に至るまで多様な姿で売春が展開していた。その多くは12歳で水揚げ(客を取り始める)をし19歳くらいまで客を取り続ける者が多かった。20代後半になっても客を取っている男娼もいたが「大釜(オカマ)」などと言われ嘲笑の対象となった。
男娼(陰間)としてはなよやかでほっそりとした小柄な少年が好まれた。よって幼少期から男娼として育てられる少年もいた。江戸での人気は大半が京都・大阪出身の優美な言葉遣いや所作が身に付いた上方から下った少年たちだった。彼らは体臭の元となるような食物はいっさい摂らず、常に口と身体を清潔に保つように心がけた。専ら男性の相手をしたが、成人すると御殿女中や後家などの女を相手にすることもあった。
現在の日本
現在でもこうした男娼は少なからずいるが、街角に立って客を待つ男娼がほぼいなくなったこともあって男娼という言葉は戦後間もなくに比べるとあまり認知されなくなってきている。
西欧
西欧では、中世においては娼婦を置いた娼館が公然と存在したが、男娼館はそれほど公然とはしていなかった。ルネサンスから近世にかけるとイタリアの自由都市においては多数の男娼が外国人の客を迎え豪華な男娼館も存在した。近代以降になるとロンドンやパリなどの大都市では同性愛者の需要に応えるべく男娼のネットワークができ男娼を摘発しようとする警察とネットワーク組織のあいだで隠然としたやりとりが行われた。しかし危険を冒すことなく男娼を手に入れたければ、南国イタリアが、外国人を歓迎して男娼を用意していた。その中には幼い少年もおり、去勢して中性的な容姿の男娼をつくることが行われた。
まとめ
- 男娼は、世界中の社会において、何時の歴史時代にも存在した。
- 女性が春をひさぐ売春婦が地理的・歴史的に遍在したと同様な事情がある。
- 売春婦は古代ギリシアにおいてすでに個人営業の者と娼館に属する者が存在した。
- 同様に男が男を寝取ることも存在した。
- 「娼館」は通常、売春婦が置かれていたが、男性同性愛者のために男娼を置いていることがある。
- 男娼を専門に抱える娼館が存在し「男色楼」ないし「男娼館」と呼ばれる。