清朝
しんちょう
概要
歴代王朝の最大版図を獲得した。
1636年に愛新覚羅氏族による後金から改名し、1644年に明が滅亡したのに乗じ大陸を支配する。
1912年の辛亥革命によって崩壊するまで存続したが、1924年までは朝廷組織として存続した。
中国史上最後の帝政中華国家(律令封建帝国)
漢民族からは北夷(異民族)にあたる満州人(満州民族、女真族)が大明帝国を乗っ取る形で成立したこの帝国は歴代の中華帝国で最大版図を獲得した。
清はかつての唐に匹敵する超大国として、中世・近代アジアの最大の影響力を持つ勢力として君臨し、名君に恵まれたこともあって長く政治が安定し、経済も繁栄して、約270年間ものあいだ存続した。
しかし、後に国運が中世以降急速に傾き、太平天国の乱に始まる大規模な反乱と、当時の帝国主義によるヨーロッパ諸国の侵略を受け領土の大半を植民地にされたことにより中国人(主に漢人)の人心は離れ反帝国運動が広がる。
朝廷も皇帝を元首として立憲君主制や議会制度を設置するなど近代化を進めるがすでに遅く、1911年に全国規模で革命(辛亥革命)が起こり「中華民国(袁世凱政権)」が国家として形成される。
これにより、4000年にわたる中国独自の律令封建体制による国家運営は終了した(事実上の滅亡)が、1924年までは皇帝と紫禁城の三省六部(朝廷)的組織はそのまま存続した。
満州国(1935年-1945年)は清の血統を引く溥儀が皇帝として即位したので、後清ともされるが、清帝国の延長線上におく事は比較的少ない。※1
漢民族視点で言えば異民族の満州人による国家だが、それ以前の歴代王朝と同じく円滑に支配をするため一部分を除いて漢民族の文化や官僚制度を温存している。
なかでも顕著であったのが言語で、溥儀が理解できた満州語は「立て」のみだった。これは中央政府の行政言語が中国語であり、北京在住の皇族ですら満州語は儀礼言語程度のものでしかなくなっていたことを物語っている。
※1 大日本帝国の属領帝国的扱いをされていたことや、満州国の行政権が帝国陸軍の一部隊にあたる関東軍に運営されていた事などがある。
清朝が西欧諸国と交流を行うようになってからは、この呼称で呼ばれるようになった。
もともと大陸の民族は、支那大陸が「世界の中心(中華)」で「世界の中心の国(中国)」であり、大陸の民族が世界の中心にいる最も優れた民族であるという優越的・自己中心的な『中華思想』に囚われており、「自国がこの世で唯一の世界帝国だ」と考えられてきた。
そのため大陸の民族は元来『国家』という意識が希薄であり、対外的な名前など考えられていなかった。
清朝皇帝
清朝の皇帝は、「満州族の首長」「中華帝国の皇帝」「モンゴル族の帝王(ハン)」「チベット仏教の擁護者」という4つの顔で大帝国を統治していた。
創作における清
明末清初を扱った作品では悪役になることが多い。逆に近代が舞台である場合、列強に酷い目に遭わされる役としての登場が多い。