概要
所属 | シアトル・マリナーズ(現役引退時) |
---|---|
出身 | 愛知県西春日井郡豊山町 |
生年月日 | 1973年10月22日 |
身長・体重 | 180cm、77kg |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1991年ドラフト4位 |
1973年10月22日生まれ。愛知県出身。登録名「イチロー」。
攻走守全てで世界トップレベルと言ってもおかしくない選手。
間違われやすいが鈴木「一郎」ではないため書く時は注意しよう。
また、名前は「一朗」だが鈴木家では次男である。
夫人は元アナウンサーの福島弓子。子供はいないが「一弓(いっきゅう)」という名の柴犬を可愛がっている。
経歴
プロ入りまで
小学生の時に地元の少年野球チームに加入。中学校時代は軟式野球で全国に出場。
高校は愛工大名電に進学し甲子園にも出たがチーム自体は初戦敗退している。
プロ野球
1992年、オリックスブルーウェーブに入団。
1994年に日本プロ野球史上初めてのシーズン200安打を達成し、210安打まで記録をのばした。これにより、同年から「最多安打」が日本プロ野球連盟表彰のタイトルとなった。また、シーズンを通じてパ・リーグ新記録となる打率3割8分5厘で、首位打者に輝く。また、最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、正力松太郎賞に輝く。打者では最年少となるシーズンMVPに輝く。
翌1995年には、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率に輝き、「五冠王」となる。また、2年連続でシーズンMVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、正力松太郎賞を受賞する。
1999年、通算1000安打達成。
2000年まで日本でプレーし、7年連続で首位打者、ゴールデングラブ賞、ベストナインをそれぞれ獲得した。
メジャーリーグ
2001年に、MLBのシアトル・マリナーズへ移籍。同年、シ-ズン242安打を放ち、アメリカン・リーグ新人王、首位打者、盗塁王、MVP、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞を受賞。
2004年、262安打を放ち、「アンタッチャブルレコード」と謳われたジョージ・シスラーのMLBの歴代シーズン最多安打記録258本を84年ぶりに塗り替える。
2009年、日米通算3000安打を達成。また、MLB史上初の9年連続200安打を達成。MLB通算2000安打を達成。
2010年に、MLB史上初めてとなる10年連続シーズン200安打を達成。また、日米通算3500安打を達成。これにより、ピート・ローズと並ぶシーズン200安打を10度達成している。
2012年7月24日、投手2名とのトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。
2015年1月27日、マイアミ・マーリンズに移籍。
2016年6月16日(現地6月15日)、日米通算4257安打を達成。ピート・ローズの歴代最多安打記録4256安打を更新した(ただし、日米通算での記録なので、米国内ではあくまで参考記録扱いである)。
2016年8月8日(現地8月7日)、メジャー史上30人目のMLB通算3000安打を達成。
2018年3月7日、シアトル・マリナーズへ復帰。
2018年5月4日、シアトル・マリナーズの会長付特別補佐に就任。試合には出場しないが現役は続行する。
2019年3月21日、MLBオフィシャルサイトを通じて同日限りでの現役引退を正式に表明。
特徴
ポジションは外野手、主に右翼を守るがたまに中堅も守る。
「レーザービーム」と称される強肩や背面キャッチ、3アウト時のファンサービス等が有名。背番号は51。
全盛期には「3打数5安打は当たり前」などの伝説を残している(後述)。
なお国民栄誉賞は三度辞退している。
現役中に二度(2001年・2004年)打診されたが、「まだ発展途上であるため、現役の間はもらいたくない」という理由で辞退した。
現役引退直後にも打診されたが、「人生の幕を下ろしたときにいただけるように励みます」と述べ辞退した。
2015年12月、マイアミ・マーリンズのオーナー・ジェフリー・ローリア氏から
「イチローには好きなだけココにいてもらいたい」と事実上の終身雇用を保証されたが、デレク・ジーターをはじめとする経営陣の刷新により撤回されてしまった。
2018年5月、シアトル・マリナーズの会長付特別補佐に就任。
3月にマリナーズに復帰していたが、これは外野手が足りなくなったためであり、5月に3Aからのメジャー昇格で外野手を補充した。イチロー本人はあくまで「最低50歳まで現役」を目標にしており、「現役引退ではなく、2018年シーズンはプロ野球選手としての試合出場を一旦休止する」こととなった。
2019年シーズン、3月20日、21日に東京ドームで行われた対アスレチックス2連戦に先発出場。この2試合をもって、現役を引退することを発表。日本で9年、アメリカで19年、計28年の選手生活にピリオドを打った。
引退後の動向は不明だが、引退記者会見では監督になる道は「人望がないから」と否定している。
イチローが引退した為、現役でオリックス・ブルーウェーブの経験がある選手がいなくなった。
全盛期なイチロー
上において述べられた記録はすべてイチローが衰えて以降のものであり、全盛期の彼の輝かしい記録には到底及ばない。
全盛期の彼を伝える記録はほとんど散逸してしまっているが、伝聞では次のように伝えられている。
- 3打数5安打は当たり前、3打数8安打も
- 先頭打者満塁ホームランを頻発
- イチローにとってのホームランは内野安打の打ちそこない
- 先頭打者サイクルヒットも日常茶飯
- 9回裏100点差、チームメイト全員負傷の状況から1人で逆転
- ワンバウンドも余裕でヒット
- 一回のスイングでバットが三本に見える
- バントでホームランが特技
- 打席に立つだけで相手投手が泣いて謝った、心臓発作を起こす投手も
- ホームランでも納得いかなければサードベース踏まないで帰ってきてた
- あまりに打ちすぎるから牽制球でもストライク扱い
- その牽制球もヒット
- ピッチャーを一睨みしただけでボールが二遊間に飛んでいく
- 試合の無い移動日でも2安打
- バット使わずに手で打ってたことも
- 自分のホームランボールを自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
- 内野ランニングホームランなんてザラ、2周することも
- 一塁でアウトになってからベンチに帰る方が早かった
- ウェイティングサークルでヒット打った
- 打球キャッチしようとしたピッチャーと、それを受け止めようとしたセカンド、ショート、センターの選手ともどもスタンドインさせた
- 観客の韓国人のヤジに流暢な韓国語で反論しながら背面キャッチ
- グッとガッツポーズしただけで5点くらい入った
- スイングでハリケーンが起きたことは有名
- 湾岸戦争が始まったきっかけはイチローの場外ホームラン
- ライトの深い位置から三塁線のスクイズも処理してた
- ボーリングの球を楽々ホームランにしてた
- 自分の打球に飛び乗ってスタンドまで行くというファンサービス
- イチローのスイングによる衝撃波で体が真っ二つになったピッチャーがいた
- スカイフィッシュの正体はレーザービーム
- 打席のイチローと目が合った投手は被安打100000と同等のショックを受けた。廃人になった者も
- イチローがヒットと言えばヒットに
- ボークも余裕でヒット
- イチローほどの動体視力があればボールの動きはおろか、ボールを作った人の名前まで分かる。
- バントで全米が泣いた
- イチローの打席のときだけ犯罪率が下がる
- スイングのおかげでイチローの打席のときだけ地球の気温が2度下がった
- 流れ星の正体はイチローの打球
- 実はノドンを一度打ち返してる
- 数字の1はイチローの打席に立った姿がモデル
- イチローの打席のときの視聴率は200%。2~3台のテレビで見る人もざら
- ジャパンには打球に乗って帰る
……など驚異的な伝説がネット上では伝えられている。
恩師・仰木彬氏との出会いとオリックス4位からの下克上
「ジャパンのイチロー」が「世界のイチロー」となるまで順調な道を歩んで来たのかというと、実は決してそうではない。むしろ彼のプロ1・2年目に困難な茨の道を歩み、多くの事を経験してきたからこそ、現在のイチローがある。
イチローは1991年にドラフト4位でオリックスに入団。入団当時は注目を特に浴びている選手ではなかった。
彼と同い年でヤクルト1位入団した石井一久氏や、彼の翌年の1992年ドラフトで、ゴジラ甲子園5打席連続敬遠という華々しい伝説を引っ提げて、鳴り物入りで巨人に入団した松井秀喜氏とは対照的に、彼はほとんど無名に近い高卒選手なので、当時のドラフトでも全体の40番目の評価でしかなかった。
1992年から1993年まではほぼ2軍暮らしで、一軍で試合をする機会はほとんどなかった。2軍時代も首位打者に近い打率を打ちながらも、昇格することはなかった。これは当時のオリックス監督であった故・土井正三氏と打撃コーチの故・山内一弘氏に「振り子打法」などの指導面で衝突があったからとされている。
イチローが世間に注目を浴びるようになったのは1994年、プロ野球生活3年目からである。
イチローはその年、その後唯一な恩師と慕うようになる故・仰木彬氏との出会いにより、才能を世に知らしめる。
野茂英雄氏のトルネイド投法という大変強いクセを全く否定しなかった仰木氏はイチローの振り子打法も全く否定せず、イチローの野球センスそのものも評価した。そしてイチローも自分を蘇らせてくれた仰木氏の想いに応え、その年に210本ものシーズン最多安打を打ちMVPを獲得した。その後も1995年のリーグ優勝や1996年の日本一などを、仰木氏と共に迎えている。
ポスティング制度を利用してのメジャー挑戦も、仰木氏の「もう一年やろう」の言葉により、挑戦を一年遅らせるなど、仰木氏がイチローに対して大きな影響力を持っていたのは間違いない。
なお仰木氏はイチローのポスティング移籍に関してはずっと反対していたが、イチローが美味い料理とお酒を武器に口説いたところそれまでが嘘のように移籍を快諾してくれたと語っている。
仰木氏は、「鈴木一朗」では非常に平凡すぎて埋もれてしまうとの理由により、登録名を「イチロー」に変更した。この登録名は仰木氏が付けたと思われがちだが、実際は当時のオリックス打撃コーチの新井宏昌氏のアイデアでつけられた(同年にはイチローのみが目立つことがないように、という仰木氏の考えから佐藤和弘にも「パンチ佐藤」に登録名を変更している)。
イチローは、仰木氏が当時監督をしていたオリックスのキャンプ場を訪れたり、仰木氏が野球殿堂入りした時はアメリカからわざわざ駆けつけ授賞式に参加している。また仰木氏が体調を晩年悪くして入院した時は、無理を言って面会をさせてもらった。その仰木氏が2005年に逝去した時(享年70)には、言葉を失い、気持ちの整理がしばらくの間付かず、部屋にこもっていたそうである。
イチローというスーパースターが誕生したのは、イチローが良き師、良き理解者である仰木彬氏と巡り会えたからであると言っても過言ではない。
ただし、1994年の大躍進までには、裏話が少しばかりあったりする。
危うく失いそうになった天才イチロー
イチロー自身、プロ入りから2年間は二軍で自分の打撃の型をしっかり作り、3年目に活躍しようというヴィジョンを描いていた。これはイチローがプロ入りした時、4年後に同い年な大卒選手がプロの世界に入った時に自分がその選手たちより上の地位にいたいという思いから、自分が確実に活躍するための計画であった。その為、練習が二軍に比べて制限され、試合に確実に出られるのかわからない状態が続く一軍は眼中にほとんどなく、1年目に一軍昇格を初めて知らされた時には相当渋り、昇格を断ったという(もちろん聞き入れられず)。
上記の通り、2年目まで自分の打撃の型を作り上げようとしていたイチローだが、2年目にイチロー自身印象深い出来事があった。それは打撃コーチの山内に「おまえはオレの言うことを聞くのか?聞かないのか?」と迫られたことだった。
一軍コーチの言う事を聞かない事は二軍落ちをもちろん意味するが、指導法も合わなかった事もあってイチローは前述の理由で「聞きません」と回答した(もちろんその後直ぐに二軍落ち)。イチローはこの判断を間違ってはいなかったという。
実は当時のオリックス監督の土井はイチローの能力を高く買っていた。現に1993年には開幕戦でスタメン起用し、その後も積極的に起用し続けたが、結果打率1割台と一軍で通用する力はまだ無く、1992年・1993年のオリックス外野陣は層が厚かったため、イチローはレギュラーから弾き出される形となってしまった。そのため一軍のベンチにただ置いておくよりも二軍の試合でより多くの打席に立たせて経験を積ませた方が良いという計らいもあって二軍落ちをさせた。これは前述のイチローの思想と偶然にも一致する。また、当時のイチローはわがままで、チームスポーツである野球において協調性の大切さを学ばせるというもう1つの理由が二軍落ちにはあったという。土井は1993年オフにファンの反発もあって監督を辞任。更に1994年は前述のイチローが活躍を計画していた3年目で、この年はオリックス主力外野陣の退団や出遅れが相次いだ事で仰木監督のイチロー抜擢に繋がり、極めつけがイチローのNPB初のシーズン200本安打達成という事が重なり、土井の指導者としての資質、評価は不評が以前からあったものの更に落とす結果となった。
このような経緯から、土井はイチローを見出せなかった指導者というレッテルを貼られ、まるで犬猿な仲であるようなイメージがあるが、イチローが日米通算3000本安打を達成した際に2009年当時癌で闘病していた土井を気遣うコメントをしており、闘病が叶わず土井が死去した際は報道陣から自身を見出せなかったという趣旨の質問に対して「そんなつもりじゃなかったのにね…」と、過去の土井の行いには理解を示しており、不仲ということは一切ないとイチローは公言している。
尚、土井は振り子打法に関してはイチローの飛躍後も否定をし続けた。イチローの振り子打法を否定した理由を要約すると、「あれはイチローの野球センスが高いからできる打法であって、本来は実践的な打法ではないから」と話している。更に土井はアメリカでシアトルの記者に対し、「当時の打撃コーチが彼のフォームを好きじゃなかったから」と答え、振り子打法の否定は土井よりも当時打撃コーチだった山内の影響が大きいことがわかる(山内は土井より10歳年上)。土井と同様、山内にも批判がもちろん起きた。
もしオリックスの首脳陣が土井と山内のままなら、イチローはプロ野球選手の平均現役寿命である7・8年(26・27歳)でクビになっていたのかもしれない。そう考えると、入団した球団の環境と上司との出会いを決して侮ってはいけないと彼のエピソードが証明している。
引退発表で「(28年間と予想より20年以上もプレイできて)後悔などあろうはずがありません!」と彼が言ったのは、下手をすれば上述の7・8年でクビになったであろうことを踏まえての発言であるのは言うまでもない。
関連動画
2009年のWBCでは、不振に苦しみながらも、韓国との決勝戦での10回表、2アウト2、3塁から決勝2点タイムリーヒットを放ち、WBC日本連覇に貢献した。そのためか、ここpixivにはWBC閉幕後イチローのイラストが大量に投稿された。
関連タグ
- 仰木彬:発掘者。そして恩師。彼との出会いがなければ「イチロー」は存在しなかったと言っても過言ではない。
- 土井正三・山内一弘:割をおそらく一番食った人。その後のイチローサイドからのフォローもあり、後に評価は改められている。
- 張本勲:NPB歴代最多安打記録保持者。日米通算安打数では既に上回っている。
- 松井秀喜:プロ入団経緯から現役引退まで、色々な意味で何かと比較対象され続けた日本人野手メジャーリーガーのレジェンド。
- ちばあきお:氏の原作漫画『キャプテン』の大ファンであり、登場キャラの「イガラシ」に共感していた。
- 山内溥:任天堂元社長。自身が経営権を持つもほとんど口出しをしなかったマリナーズに対し、「天才とそれ以外の差は紙一重だが決して越えられないもの。そして、イチローは天才」と珍しく獲得を厳命したという。イチローのメジャー最多安打達成時には任天堂株5000株(当時のレートで6000万円弱相当)を無償でプレゼントした。ちなみに、イチローからの山内氏の評価は「僕よりずっと体が小さいのに、思わず眼をそらしたくなるくらい人としての圧が強い人」
- MLB
- ユンケル:CM出演後に愛飲、専用のジュラルミンケースを作り持ち歩くほどのヘビーユーザーになっている。