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蒲生氏郷の編集履歴

2020-07-14 11:17:57 バージョン

蒲生氏郷

がもううじさと

戦国武将。キリシタン大名。蒲生賢秀の三男。

概要

生誕 弘治2年(1556年)

死没 文禄4年2月7日(1595年3月17日)


近江・六角氏の家臣だった蒲生氏は平将門を討ち取った「俵藤太」こと藤原秀郷の末裔という。氏郷はのちに織田信長豊臣秀吉といった実力者に仕え、会津91万石の大大名となる。天下人への夢を抱くも志半ばで病没した。

幼名は鶴千代。通称は忠三郎。最初の諱は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。受洗名はレオンまたはレオ。

生涯

永禄11年(1568年)、六角義賢六角義治父子が上洛を目指す織田信長に敗れ、父・賢秀は信長に臣従し、当時13歳の蒲生鶴千代は人質として岐阜に送られた。鶴千代と対面した信長は「目付常ならず、只者にては有るべからず」と述べ、彼を人質ではなく家臣として重用し、冬姫と許婚に決めるほど気に入っていた。ちなみに鶴千代は死ぬまで側室を置かず正室一筋を貫いている。


元服して「忠三郎賦秀」と名乗り、伊勢での北畠具教との戦いで初陣を果たし、姉川の戦い長篠の戦いなどの合戦に従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いでは峰城、戸木城、加賀野井城を攻めて秀吉を後方から支援した。この戦いの際に賦秀は銃弾を3発受けている。

その後も秀吉の手足となり、九州征伐では岩石城を攻略している。

天正16年(1588年)、伊勢(三重県)に12万石を与えられ、居城の松阪城を築いた。この前後に名を先祖の秀郷にあやかり「氏郷」と改めた。

改名後に参戦した小田原攻めでは韮山城の攻撃部隊に加わっている。


天正18年(1590年)、徳川家康伊達政宗を監視する理由で会津へと移封され、42万石の大名となる(後に検地により91万石)。この待遇に氏郷は内心不服であったものの受け入れ、政宗と互いに対立しながらも、黒川城下に商人や職人を集めて殖産興業を伸ばして街作りに努めた。また街の名を黒川から若松と改め黒川城を改造し自らの幼名を冠した鶴ヶ城(会津若松城)とした。


文禄元年(1592年)、朝鮮出兵のため名護屋まで出張。この頃から体調を崩すようになる。養生のために上洛し、秀吉が開いた宴会にも無理して出席するが、氏郷の重病は誰の目にも明らかで、心配した秀吉が医者を派遣している。

文禄4年2月7日(1595年)に京都伏見で亡くなった。39歳という若さであった。

この後、蒲生家は秀行が若くして継ぐが「蒲生騒動」と呼ばれる御家騒動が起こり18万石に減らされた上で宇都宮に移され、会津には上杉景勝が越後から移された。


人物

茶道に興味を示し、千利休の高弟の一人にも数えられた。同じ利休の高弟であるキリシタン大名の高山右近と親交があったため、キリスト教に帰依し、洗礼名「レオン」を持っていた。


話好きで怪談や武辺談話を好んだ。特に武辺談話好きは信長や稲葉一鉄に評価された。家臣を大事にした一方で規律には厳格で、約束を破った家臣を処罰したり、「子供なんかいくらでもいるから1人くらい捨ててもいい」等と発言した家臣に激怒し、処分している。


非常に気が長い性格とされ短気で知られかつ家臣に対しても苛烈だった細川忠興井伊直政と比較された。


武勇に秀で、戦場では自ら先陣を切って戦った。秀吉はそれこそが氏郷の弱点だと暗に指摘しており、蒲生軍の兵を5人打ち取ればその中に氏郷の首も入っているだろうと述べている。


子どもに関して男子の数に恵まなかった。このため氏郷死後から30年経った孫・忠郷死後に「寛永蒲生騒動」が起こったこともあり蒲生家は無嗣断絶した。


伊達政宗とは犬猿の仲であった。どちらも若くして才を発揮した麒麟児であったため、似た者同士であったのだろう。


また徳川家康とも不仲で勘の鋭い氏郷は家康の野心に早くから勘付いていた。「江戸の家康が西に兵を上げれば、俺が東北から家康の背後を突いてやる」と言っていたという。また「家康はケチで人望がないから天下は取れない」とこき下ろしていたことも有名。しかし嫡子の秀行は石田三成と折り合いが悪かったため、父とは逆に親徳川になった。


天下人への野心

氏郷は天下人の素質があったと言われ、彼自身も天下人を目指していたという。

会津への転封を命じられると家臣からお祝いの言葉を受けた。しかし氏郷は「馬鹿な…この俺がこんな僻地に…!」と嘆いたという逸話がある。秀吉は氏郷の能力を警戒し、あえて都から遠い会津への転封を命じたの説もある。

また、彼は「秀吉様や前田利家殿はご高齢で生い先が短く、家康には人望がない。将来は俺こそが天下人になる」と語っていた。しかし皮肉にも、氏郷は秀吉・利家・家康の3人よりも早く世を去った。

このため氏郷を警戒していた秀吉に不仲の政宗や家康さらに石田三成直江兼続らによる毒殺説を囁かれる。実際は直腸か膵臓の癌による病死とされる。


評価

千利休曰く、「文武両道で、これほどの人物は日本で1、2人しかいない」「天下一気の長い人

秀吉は「もし100万の大軍があれば蒲生氏郷に指揮させてみたい」と語ったという。

キリスト教宣教師のオルガンティノはローマ教皇に、「優れた知恵、万人に対する寛大さ、戦場における特別な幸運と武勇により、傑出した将軍である」と報告している。


辞世の句


かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風


自身の早世を嘆いた句らしい。

作家の山田風太郎は、戦国武将の辞世の句としては最も美しいと評価している。


創作

信長の野望では全ての能力値が高水準で、髭の有無はあれどもイケメン風のグラで登場することが多い。


当時の武将は陣羽織を着用することが多かったが、舅・信長の影響か氏郷は珍しくマントを羽織っており、ダース・ベイダーのデザインは蒲生氏郷と伊達政宗の甲冑をモデルにしているとも言われている。


関連イラスト

蒲生氏郷【織田家】

殿といっしょ

蒲生さんの暑中お見舞い 夏なので蒲生さん


関連タグ

日本史 戦国時代 安土桃山時代 戦国武将 キリシタン

へうげもの 殿といっしょ

蒲生賢秀 六角義賢 織田信長 冬姫 山科勝成 北畠具教 豊臣秀吉 伊達政宗 石田三成 直江兼続 上杉景勝 千利休 高山右近 古田織部


戦国無双・・・彼が身につけていた兜が一般武将のデザインで使われている。

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