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南海ホークス

なんかいほーくす

大阪球場を拠点としていたプロ野球球団。親会社は南海電気鉄道。1989年に「福岡ダイエーホークス」に球団名を変更し、福岡へ本拠地を移動した。

現在の「福岡ソフトバンクホークス」の源流のプロ野球球団。

この記事では一時期の名称である「南海軍」「近畿日本軍」「グレートリング」についても合わせて記述する。

球団史

創設から終戦まで(1938~1944)

巨人阪神から少し遅れた1938年に、「南海軍」として誕生した。親会社は南海鉄道(のちの南海電気鉄道)。同年8月27日に公式戦に参戦し、これが球団の始まりとなった。

1939年鶴岡一人(当時は「山本一人」)が入団し、いきなり本塁打王を獲得。

しかし、戦争に召集されたためにまたしても低迷してしまう。

以後、主力選手が次々と召集されたためにチームの戦力は落ちてしまい、1943年には球団初の最下位に沈んでいる。

1944年には、戦時統制により親会社の南海が関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道(近鉄)となった。

この年は戦局の泥沼化により野球を続けられる状態ではなかったため、この年の夏季を以って戦前のプロ野球は終わった。

なお、近鉄バファローズは近鉄が南海から分離した後に誕生したため、この年の成績は近鉄の歴史に含まれない。

戦後まもなく(1946~1949)

1946年、プロ野球の再開によりリーグ復帰。同年初優勝。この年近畿グレートリング(近畿日本グレートリングとも?)を名乗る。

翌1947年、近畿日本ホークスに改称。当時の近畿日本鉄道の略称は近畿日本から来る「近日」で、球団も「近畿」「近日」と呼ばれた。「近鉄」の名が使われるようになったのは翌1948年の近鉄百貨店改称からであり、更に翌年の1949年に設立されたバファローズの前身「近鉄パールス」は発足当時から近鉄の名を使用している。

なお、同年に近畿日本鉄道は難波営業局と天王寺・上本町両営業局の分離を行うこととなり、1947年6月に難波営業局は南海電気鉄道として再発足した。これに伴い球団の経営権も新・南海が獲得し、同月南海ホークスを初めて名乗ることになる。

グレートリング時代の1946年より長く山本一人(後に結婚前の鶴岡一人に戻す)が監督を務めた。

なお当時、本拠地は堺市の中百舌鳥にあったが、集客が望めないとの理由から阪神甲子園球場西宮球場を間借りしていた状態だった。

2リーグ分裂、鶴岡の時代(1950~1968)

2リーグに分裂後はパシフィック・リーグ(パ・リーグ)に加盟。奇しくも分離後に発足したパールス後のバファローズとは同じリーグに所属した(関西の鉄道系4球団の内、阪神を除く3球団がパの所属である)。

同年に本拠地である大阪球場を難波のど真ん中に完成させ、翌年には甲子園よりも早く照明設備を整えた。

1951年からリーグ3連覇を達成するが、日本シリーズでは何れも巨人に敗北。1954年野村克也が入団。

1959年には、杉浦忠の活躍でリーグ優勝。日本シリーズでも4連勝のスイープで巨人を一蹴した。日本シリーズでの巨人との対決は通算5度目であったが、念願のシリーズでの初勝利となり、同時に2リーグ制で初の日本一となった。

なお、前年に妻を亡くした山本監督は、姓を元の鶴岡に戻したが、鶴岡姓で戦った初年度がちょうど日本一を奪還した年でもある。

世間が東京オリンピックに沸いた1964年は、助っ人投手ジョー・スタンカの大活躍でリーグ優勝。

御堂筋決戦と呼ばれた阪神との日本シリーズは、4勝3敗で5年ぶりの日本一に輝いた。

1965年限りで鶴岡は辞任を表明し、蔭山が監督になることが決まっていたが指揮を執ることなく急死したため、鶴岡が留任することとなった。

そして1968年限りで今度こそ勇退。終戦直後から足掛け23年に渡る鶴岡政権が幕を閉じた。

野村兼任監督(1970~1977)

1969年飯田徳治が監督に就任するもわずか1年で辞任。

1970年からは野村克也が34歳で選手兼任監督に就任。

前後期制がスタートした1973年に前期優勝の阪急を破り総合優勝を決めたが、これが南海として最後の優勝となった。

1977年は総合で2位につけるも、この辺りから野村沙知代が介入することが増え、球団は公私混同を理由に野村を解任することに踏み切った。

野村は翌年選手一本でロッテオリオンズに移籍。その後は福岡から埼玉に移転した西武ライオンズに移籍し1980年限りで引退。

野村去りし後(1978~1988)

野村の後任となったのは広瀬叔功だったが野村の残した成績に遠く及ばず。

人気も低迷し、球場は閑古鳥が鳴くばかり。大阪球場リニューアル案や中百舌鳥再移転案も出るが実現することはなかった。

1985年は年明け直後の1月4日久保寺雄二が急死。その影響もあって最下位に終わる。

1988年には杉浦が監督に就任。門田博光が40歳にして44本塁打を打って本塁打王に輝き、「不惑の大砲」と呼ばれた。

しかし4月23日に南海の川勝傳オーナーが死去。

「わしの目が黒いうちは絶対に南海は身売りさせんぞ!」と言っていたが、その死後にダイエーへの売却が発表された。

なお、10月19日には阪急もオリックスへ売却となり、同じ年にパ・リーグの私鉄系老舗2球団が相次いで身売りされてしまう事となった。

結局野村の退任後は優勝はおろか1度もAクラスに上がることなく、連続Bクラスは1997年まで20年に渡り続いた。

(ちなみに広島東洋カープは1998年から2012年まで15年連続Bクラス。)

本拠地が大阪から福岡に変わり、元号が平成に変わった1989年より福岡ダイエーホークスという新たな球団としてのスタートを切った。

その後

南海時代の本拠地だった大阪球場は老朽化により1997年限りで閉場となり取り壊された。現在は「なんばパークス」が置かれ、当時の歴史を残す資料館が置かれている。

だが、2020年現在も頑なに野村克也の資料は置かれていない。これについては、後妻である野村沙知代が電話で資料を載せないように頼んだとか、氏本人が「不義理をかけたのでこちらから縁を切る形にしてもらった方が良いだろう」と考えたとか、色々その理由が言われている。

 また、野村の先妻は南海電鉄の重役の娘であるとか、あるいは後援会長ないし有力者の娘であり、その先妻を裏切る形で後の後妻との不倫を行い(なお後年の本人の証言によると、先妻から不倫を始めたと語るが、ワンサイドの主張なので推して知るべしであろう。実際先妻の子や野村と利害関係のない王貞治との証言とも矛盾している)、それどころか公私混同としか言いようのない行為が頻発して電鉄幹部が激怒したせいであると言われている。

南海電鉄側は少なくとも、野村が退団した1978年に刊行された「南海ホークス40年史」には、野村の業績やその関係について痛恨の念を表明しつつも、野村の健勝を祈るなど露骨に悪感情を表明することはなかった。

野村夫妻なき今も、しばらくは野村の業績がメモリアルギャラリーで顕彰されることはないであろう。

・・・と思われたが、2020年10月、メモリアルギャラリーに野村の遺品や写真などを展示することが決定された。発起人は元チームメイトであり引退後も悪友のような付き合いだった江本孟紀。リニューアル費用はクラウドファンディングで賄われる模様。

公式ユニフォームにを採用した珍しい球団でもあり、現行12球団にそのようなチームはない。後継球団のうちダイエーはオレンジを、ソフトバンクは黄色を基調としている。

2006年オフに南海時代から在籍し続けた大道典良(大道典嘉)が戦力外通告を受け、これにより南海時代からホークスに在籍した選手はいなくなった。

2007年限りで大道と同期の吉田豊彦が引退し、大道が最後の南海戦士となったが2010年限りで引退したため、ここに南海戦士はいなくなった。

なお、大道は南海時代には一軍出場はなかったため、一軍出場経験がある人物に限れば前述の吉田が最後となる。

貧乏球団

貧乏球団数あれど、末期の弱小ぶりもあって南海ほど貧乏球団としてのイメージが広く根付いている球団はいないといっていいだろう。

  • 80年代まで現役の暖房設備として機能した火鉢
  • 給料とは別に支給される1日500円の食費を手にマクドナルドで並ぶ選手たち。
  • 自宅が近かったとはいえ大阪スタヂアムにママチャリで通勤するドカベン香川
  • 負傷して担架がなく戸板で運ばれる門田博光
  • 窓ガラスが割れると防水処理をしていないベニヤ板でふさいだせいで悪臭が立ち込める選手寮。
  • 3年連続二冠王に輝いても減俸させられ、「ホークスは好きだけど南海は大嫌い」とブチ切れる野村。

関連動画

南海ホークスの歌

1952年(昭和27年)発表。歌は灰田勝彦

球団売却の1988年まで使用された。

関連タグ

パシフィック・リーグ(パ・リーグ)

南海電気鉄道 南海キャンディーズ なんばパークス

南海ホークス福岡ダイエーホークス福岡ソフトバンクホークス

  • レールウェイズファミスタシリーズに登場する架空の球団で、南海・阪急・近鉄の混成チーム。いずれも関西の私鉄が親会社だったが、現在は球団を保有していない。
  • あぶさん:上記三代に渡るホークス球団を舞台にした水島新司の漫画。背番号90はあぶさんに配慮して長らく欠番だったが、現在はスアレスが着用。
  • 間寛平:南海時代からのホークスファン。

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