基本情報
御名(諱) | 明仁 |
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代数 | 第125代、位:昭和64年(1989年)~平成31年(2019年) |
称号 | 継宮 |
誕生 | 昭和8年(1933年)12月23日 |
践祚 | 昭和64年(1989年)1月7日 |
即位礼 | 平成2年(1990年)11月12日 |
大嘗祭 | 平成2年(1990年)11月22日・23日 |
退位礼 | 平成31年(2019年)4月30日 |
出身 | 東京府東京市麹町区宮城(現・東京都千代田区千代田) |
宮殿 | 皇居宮殿 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
上皇后 | 美智子 |
皇子皇女 | 徳仁今上天皇、秋篠宮文仁親王、黒田清子 |
概要
ご生誕・皇太子時代
昭和8年(1933年)12月23日、昭和天皇の第五子にして第一皇子として生誕、母は皇后・良子女王(香淳皇后)である。
『易経』離為火の「大人もって明を継ぎ、四方を照らす」より継宮明仁親王と命名される。
「大徳ある帝王は、代々明らかな徳を継承し、絶えずその明徳を明らかにしてやまず、天下四方をあまねく照らし、天下万国を君臨統治なさる」という意味とのことである。
成子内親王、祐子内親王、和子内親王、厚子内親王と皇女が続いた後の最初の皇子である。
昭和11年(1936年)、当時の皇室のしきたりにより、満2歳からは家族とは切り離され東宮仮御所にて養育される。
昭和15年(1940年)4月、学習院初等科に入学、太平洋戦争の激化により、昭和19年(1944年)、」東京より当初は日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光の南間ホテルに疎開、翌昭和20年(1945年)8月、当地にて終戦を迎えられた。
大戦後、学習院で学ばれたが、昭和21年(1946年)10月から4年間、アメリカの著名な児童文学者ヴァイニング夫人を家庭教師に招き西洋の思想と習慣を学んんでいくこととなる。
昭和27年(1952年)、立太子の礼を受け、正式に「皇太子」となる。
昭和28年(1953年)、イギリスのエリザベス女王の戴冠式に名代として参列、欧米各国の公式訪問も兼ね、「皇室外交」の先駆けとなった。
昭和34年(1959年)4月10日、民間から正田美智子嬢を皇太子妃に迎える。
当時テレビの普及はまだまだであったが、「世紀の御成婚」の中継を拝見しようと、この年のテレビの契約台数は200万台にはね上がった。
昭和35年(1960年)2月23日、には第一皇子・浩宮徳仁親王が誕生。その後、礼宮文仁親王(秋篠宮)、紀宮清子内親王が誕生となった。これまでのしきたりを破り、乳母を用いずに自らの手で育てる、皇室の新たな在り方を示すこととなった。
昭和39年(1964年)、東京オリンピックの後に行われたパラリンピック大会において、名誉総裁を務める。
皇太子時代から本土復帰前から沖縄に心を寄せていたことでも知られる。
沖縄から上京する小中学生との「豆記者」らとの交歓を続け、専門家から沖縄の歴史や文化を学び、琉歌を身につけ、昭和50年(1975年)、沖縄の南部戦跡において哀悼の意を詠まれた。
「摩文仁」と題されたこの琉歌は、沖縄では毎年の戦没者追悼行事において紹介されている。
昭和52年には沖縄海洋博の開会式にも出席されている。
また、魚類学者としての顔ももちハゼの分類を主軸に研究を続けられている。
即位
昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇の崩御後、歴代2位の高齢で皇位を継承・即位、翌1月8日には平成の元号が建てられた。「天下の水陸共に平穏となり、万物はそれぞれの成育を遂げる」という意味の元号である。
即位の大礼は、翌平成2年(1990年)11月12日に挙行された。
以来、今上天皇は積極的に公務をとられ、「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています」との日々実践されている。
日本各地に精力的に皇后とともに行幸され、全47都道府県の巡幸を果たされた。様々な式典にも参列し、国民との距離を縮められている。
雲仙普賢岳火砕流を皮切りに、阪神淡路大震災や新潟県中越沖地震、三宅島噴火、伊豆大島土砂崩れなど、自然災害による甚大な被害が発生すると、被災地を訪れて大勢の被災者たちを労わられている。
外遊でも世界中を訪れ、各国元首や現地住民、現地在住日本人などとも活発に交流をされている。
天皇の旅は先の大戦の慰霊と哀悼の旅でもある。
平成5年(1993年)、即位後初めて沖縄を訪問、歴代天皇のなかでも初の沖縄訪問であった。
平成6年(1994年)、硫黄島へ慰霊のために訪問、以後も慰霊のためのご訪問を切望されたた結果、平成17年(2005年)、サイパン訪問が実現した。
平成23年(2011年)3月11日、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が発生。3月16日に天皇陛下自らが全国民に向けてのお言葉を発表された。このお言葉はビデオメッセージ形式で発せられたが、昭和20年の終戦時に行われた昭和天皇以来の玉音放送だった。
東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)
このメッセージの主眼は「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」という点であった。
そして天皇はみずから「苦難を分かち合」う先頭に立たれようと、外国大使の信任状奉呈式や閣僚などの認証式といった国事行為の案件にかぎって使用する以外に皇居の宮殿を閉鎖され、御所でも東京電力による計画停電の対象外であったにもかかわらず「自主停電」を実施された。
那須御用邸(栃木県)の職員用浴場を避難者に開放され、御料牧場の卵や野菜、缶詰などを避難所に送られた。
東京都内や埼玉県の避難所を訪問、被災者の慰問がなされたのもこのときである。
一方では3月末に予定されていた静養は見送られ、4月末の遊園会も中止された。
その中で、平成12年(2000年)以降は健康を害されることが多く、癌や肺炎など様々な病気により入退院を繰り返されている。
譲位へ
平成28年(2016年)7月13日。陛下は宮内庁関係者に「譲位」の意向を示されたという。陛下は「憲法における象徴として公務を十分に果たせる者が天皇の位にあるべきで、公務の軽減や代役(摂政)などで自身の留位は望まない」との考えで、数年以内の皇太子殿下への譲位実現を望まれている。
8月8日に陛下は象徴としての務めについて、東本大震災以来2度目のビデオメッセージ形式で伝えられた。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)
退位や譲位は歴代天皇において珍しくはないが、江戸時代後期の光格天皇を最後に明治から平成に至るまで退位は約200年間もなく、皇室典範も退位や譲位の規定を記していない。譲位によって上皇ができることで、新旧天皇による二重権力が起こる恐れから譲位を記さなかったとされる。現在でも天皇の終身制を改めた「皇位定年制案」の議論も存在する。
ただ議論で時間を費やすのは適切ではないとして、特例法で明仁陛下の譲位と皇太子殿下の天皇即位が決まり、平成31年(2019年)4月30日を平成最後の日とした。新元号については2019年4月1日に公表、菅官房長官により「令和」と発表された。
その1か月後の4月30日に退位の礼が執り行われ、翌5月1日皇太子殿下が新天皇として即位。元号も平成から令和へ改元された。これにより、天皇であった明仁陛下は上皇、皇后であった美智子陛下は上皇后となられた。
譲位された後は、皇太子ご一家のお住まいであった赤坂御所と皇居の宮殿を入れ替わる形で御移りになられることが決まっており、老朽化した施設の改修工事完了後に実施される。改修後の赤坂御所は「仙洞御所」となる。
譲位後
天皇の座を離れられた後は、予定通りの転居準備を進められつつお暮らしになっている、
2020年はCOVID-19の流行もあり表に出られる機会は大幅に減ってはいたものの、ハゼの研究はマイペースに継続されており南日本に生息するオキナワハゼ属の新種を発見されたという。
(さすがに体調や状況のこともあり、採取作業はスタッフの手による)
人物や逸話
- 実は左利きであったが幼少期に矯正を受けられて、その後は両利きとのことである。
- 奥日光に疎開されてた時は東京の昭和天皇と手紙でやり取りをされ、その中には昭和天皇の敗戦の原因についても書かれていた。
- 疎開先での授業の際に特攻を説明されていた将校に「何故特攻をしなければならないのか?人的戦力を消耗するだけではないのか?」と率直な質問をされ、その場にいた誰もが返答に窮させてしまった。
- 「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念をお持ちとのこと。
- 卒業間近の学生時代のとある日、学友2人とともに東宮侍従長に黙って銀座へ遊びに出かけ、喫茶店でコーヒーや洋菓子店でアップルパイや紅茶を楽しまれた。後に「銀ブラ事件」と呼ばれた騒動である。
- この決行日について学友は「最後の期末試験の後で(皇宮警察の)ガードが堅くないのか?」と訝しんだそうだが「いや今が一番緩みきっている」と即答されたという。宮様とはいえ高校生に出し抜かれる侍従長や警察って・・とのことだが、実は影伴がついていて、たくらみは筒抜けだったとの逸話が残されている。
- 自動車愛好家としても知られ、英・デイムラーや伊・アルファロメオに始まり、プリンス自動車・プリンスセダン(その他同社製9台) ホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど実際に運転したことのある車種が非常に多い。皇太子時代の1953年には、ヨーロッパを外遊中にF1ドイツGPを観戦された。この時、表彰式のプレゼンターを務められたというが、これがF1の表彰台に立った初めての日本人らしい。2010年に放映されたテレビ番組でも天皇自らがハンドルを握り、助手席には皇后が、後部座席には侍従が同乗する映像が流れている。
- 鉄道に関する関心も深いが、その一方で特別扱いを嫌い国民に迷惑を掛けたくないと配慮される人柄でもあり、公務による長距離移動の際は宮内庁専用に用意された御料車よりも一般車両を借り切るお召し列車を使われることが多い。
- 平成13年(2001年)に桓武天皇が韓国王室と血縁関係を持っている点について発言され、韓国でも大いに関心を集めた。
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