誘導
- 日本の競走馬。本項で解説する。
- 『ウマ娘プリティーダービー』にて1をモチーフとして登場するウマ娘。→ イクノディクタス(ウマ娘)
2に関してはリンク先のタグを使用する事を推奨。
概要
生年月日 | 1987年4月16日 |
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死没 | 2019年2月7日 |
英字表記 | Ikuno Dictus |
性別 | 牝 |
毛色 | 栗毛 |
父 | ディクタス |
母 | ダイナランディング |
母の父 | ノーザンテースト |
5代内のインブリード | Lady Angela5×4(母内) |
主戦騎手 | 村本善之 |
競走成績 | 51戦9勝 |
獲得賞金 | 5億3112万4000円 |
※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。
生涯
デビュー前の故障と復活
イクノディクタスは競走馬デビューを控えた3歳時に屈腱炎(脚部の一部腱損傷、競走能力に影響を及ぼし、再発の可能性もある)を発症し、安楽死処分すら検討されていた。
彼女を救ったのは「馬の神様」とも呼ばれた装蹄師・福永守である。「一つとして同じ馬の脚はない(だから、各馬に合わせた蹄鉄が必要だ)」「骨折と腱断裂以外は、装蹄しだいで治せる」との持論をもつ福永の処置で、無事に故障を完治させることができた。(という逸話があるが真偽は不明。そもそもそんな怪我を負った馬が3歳の7月にデビューできるとは考えづらい)
競走馬時代
1989年デビュー。1990年(4歳)、牝馬クラシック戦線に挑むも、桜花賞11着・オークス9着・エリザベス女王杯4着(注:当時秋華賞はまだなく、女王杯が牝馬三冠の最終戦だった)と敗れる。
1991年(5歳)、ここから彼女のヘビーローテーションが始まった。1月から9月までで12戦に出走、5月の京阪杯(GⅢ)で重賞初制覇。
4か月の休養ののち1992年(6歳)はさらにペースを上げ年間16戦を走る。6月の金鯱賞(GⅢ)・8月の小倉記念(GⅢ)に勝利、さらに9月のオールカマー(GⅢ)ではオグリキャップの記録を塗り替えるレコード勝ちを収めた。
オールカマー以降、そのオグリが1989年に走ったのと全く同じ、GⅠ4連戦を含む秋3か月で6戦の日程をこなした(オールカマー ⇒ 毎日王冠 ⇒ 天皇賞秋 ⇒ マイルCS ⇒ ジャパンカップ ⇒ 有馬記念)。
同年、JRA賞最優秀5歳以上牝馬に選出された。
1993年(7歳)、春先から産経大阪杯6着・天皇賞春9着など、流石に力が陰ったかと思われていた。しかし5月の安田記念では14番人気からヤマニンゼファーに次ぐ2着、馬連68,970円の高配当を生み出した。続く宝塚記念でもメジロマックイーンに食らいつき2着。その後は、11月の富士ステークス(OP)8着を最後に引退した。この年も10戦をこなした。
繁殖牝馬時代
引退後は繁殖牝馬となった。初年度の配合相手に選ばれたのは、93年の宝塚記念でワンツーを飾った同期のメジロマックイーン。「マックはイクノディクタスに想いを寄せていたのでは(武豊談)」という証言もあり、夢の配合が実現した珍しい例である。
残念ながら産駒から活躍馬は出なかったが、功労馬として現役時代同様の頑健さで余生を送り、2019年2月に老衰のため32歳で大往生を遂げた。
特徴
デビュー前の故障から立ち直り、超過密日程を含む生涯51戦を故障なく走りぬいた。その頑健さから、アメリカの名牝馬トリプティクの異名に擬え「日本の鉄の女」と呼ばれた。また、生涯9勝のうち8勝が夏季に集中していたため「夏女」とも。ライバルのヌエボトウショウとは5勝6敗だった。
長い戦歴の中、逃げから追い込みまで幅広い戦法で走っているが、1992年夏~秋の重賞3勝は先行抜け出し、1993年に2連続GⅠ連対を果たした安田記念・宝塚記念は後方待機からの直線追い込みで戦っている。
GⅠ勝利こそないが「無事是名馬」を地でゆき、当時の牝馬歴代1位の獲得賞金・初の5億円突破を果たした。(生涯獲得賞金記録は、1週間後にシンコウラブリイが更新。)
村本善之騎手にとっては、メジロデュレン(1986年菊花賞・1987年有馬記念)やダンツシアトル(1995年宝塚記念)に並ぶ代表的騎乗馬である。
エピソード
ボス馬イクノディクタス
引退後の五丸農場では長らく放牧地のボスとして君臨していた。最終的に2007年にやって来た繁殖牝馬ヤチブキと激しいボス争いを繰り広げた末に敗北し、ボスの座を明け渡すことになったが、通常、若い馬が有利な牝馬のカーストにおいて、21歳(人間で言えば60歳)までボスの座についていたのは流石はディクタスの血を引く者と言うべきか。
交友関係
繁殖牝馬引退後も他の繁殖牝馬と同じ放牧地で過ごした。シーズンによっては自身の娘と同じ放牧地になることもあったが、「知ってか知らずか親仔関係は希薄で、イクノディクタスはあまり他の馬に干渉しないね」とは五丸社長談。
晩年は1頭だけの放牧地を与えられ、悠々自適に過ごしていた。仲間がいないと不便なこともあり、背中が痒い時は気の合うお隣さんのジョウショーコトミ親子に来てもらい、グルーミングし合っていたという。