構造
15世紀のヨーロッパで作られ、ドイツで発展した初期の鉄砲。マッチロック式銃に分類され、フリントロック式の前身である。初期のマスケット銃も構造は火縄銃と同じだった。
もっと初期的な銃器は、点火の際にいちいち火種を中に挿し込んで点火する物だったが、点火部分に専用の機構が初めて使われた。
まず、球状の弾丸と火薬の入った胴薬を銃口から、槊杖(さくじょう)を使って奥へ詰め込み、火皿にも火薬を入れる。S型金具のサーペンタインロック式が用いられ、バネ仕掛けの火鋏に火縄を挟んで固定し、引き金を引くと火縄は火皿を叩く。火皿の黒色火薬に火縄が押し付けられて点火すると火穴を通して銃身内の火薬へ誘爆し、弾丸を発射する。
火皿には火蓋と呼ばれる蓋があり、火縄から引火しての誤発射を防ぐ、火皿の火薬が落ちないようにする役割があった。撃つ直前に開く必要があることから「火蓋を切る」の語源になった。
火縄銃にも緩発式(引き金に力を加えて点火する)と瞬発式(引き金の固定を外して点火する)と方式に違いがあり、ヨーロッパや中東では前者、日本や東南アジアでは後者が主だった。
威力と命中精度
古銃は殺傷力が低いイメージがあるが、まともに当たれば人間を即死させられる強力で危険な武器である。黒色火薬を用いてはいたが、殺傷力は現代の散弾銃や拳銃はおろか、至近距離ならライフルより上である。(エネルギー的な意味でなく、人体損壊的な意味。現代ライフル弾、特に5.56mmNATO弾について、保有エネルギーは文字通り桁違いに高いが、適切な初速がないと貫通したり体内で”暴れず”に致命傷にならないなど、メタルジャケット製尖頭弾に起因する欠陥を内包していた。火縄銃はただの大口径円型鉛弾を撃ち込むため、基本は貫通しずらい上に弾丸が変形して”暴れる”などして全エネルギーが人体損壊に加わる)
火縄銃の威力というのは入れた火薬量によって決まるため、反動を無視すれば小型の大砲並みの威力とも成りうる。また、弾丸も丸くて重い鉛製で、ライフリングが施されていない滑降式の銃であれば逆に威力が上がる。貫通力も決して低くなく、至近距離では鉄板製の当世具足(対火縄銃用に作られた鎧の一種)を打ち抜くことができた。むしろ下手に鎧を着ていると、弾丸が人体を貫通せずに体内で散乱してR-18G的な事態に陥る危険もある。
一方、弾丸は現代のような紡錘形ではなく球形であるため、初速や直進安定性は後世のライフルよりもかなり低く、最大飛距離は400m、有効射程は100〜200m程度とされる。発射速度が低いこともあって、運用には集団戦法が必要だった。
とはいっても、発射の際に手元がぶれてしまう燧石銃(フリントロック式)と比べれば精度は高く、日本では戦場でも狙撃に使われている。
歴史
日本には16世紀半ばの戦国時代に鹿児島の種子島に伝来したのが最初といわれ、中国商人の船に乗船していたポルトガル人の持っていた火縄銃を種子島領主の種子島時堯が2丁買い取り、八板金兵衛などの職人によって複製に成功した。瞬く間に量産体制と専門職人が整い、国内生産された火縄銃を戦国武将達はこぞって合戦に使用した。当時は別名として「種子島」とも呼ばれていた。一説にはそれ以前に中国から火器が持ち込まれたとされ、アニメ映画・「もののけ姫」や「忍たま乱太郎」にはこの説に基づいた武器が登場している。
製造技術は種子島から伝来し、中でも堺(現在の大阪府)、国友(現在の滋賀県)、根来・雑賀(現在の和歌山県)などは名産地として知られた。中でも雑賀と根来は根来衆、雑賀衆という火縄銃で武装した傭兵集団を組織し、戦国の世に名を馳せた。
明智光秀や滝川一益、杉谷善住坊は射撃に通じ、いち早く注目した織田信長や雑賀孫市、伊達政宗は鉄砲隊を組織。信長は本願寺との石山合戦で鉄砲を駆使する雑賀衆を攻撃失敗した際に、組織的鉄砲戦力の威力を認識し、武田勝頼との長篠の戦いで織田軍勢の鉄砲隊は威力を発揮した(そもそも兵力差もあったが)。16世紀のヨーロッパではすでに旧式銃となっていたが、当時の世界では生産総数世界一となったうえ、技術的にも改良され、欧州の火縄銃よりも高い性能を誇った。
また、日本の火縄銃の特徴としては肩当てがない。これは、弓を使っていた名残ともされる。このため、7kgある銃を右腕だけで支えなければならないのだが、逆に仰角を簡単に取ることができた。
その一方で、銃の導入を躊躇う武将も多々いた。装填に時間がかかり、火薬は湿気ると使えず、日本にない火薬の原料の硝石は輸入しなければならない(後に国産化に成功)など、弱点が多かった。防水性の火薬入れや口薬入れを使う、防湿性があり一発分の弾と火薬を詰めた早合を使う、雨のかからない早合入れを使用する 、火縄に漆が塗られた雨火縄を使うといった工夫がされたが限度があった。
信長が三班制の陣形で装填時間を短縮したと言われるが、疑問視もされている。
また、角度をつけることで弾をそらす甲冑や、竹を束ねた盾の竹束など火縄銃対策の防具も考案されており、時の将軍足利義晴は築城の際、防壁の間に小石や砂利を詰めることで弾が貫通しないようにした、という記録もある。
天下泰平の江戸時代にも、火縄銃は使われ続けたが規制は厳しく、所持する場合は証明書が発行された。幕府と各藩が厳重管理し、一般では猟師か、害獣の駆除くらいしか使用しなかった。……という名目ではあったが、実際には闇所持はかなり横行していた。また、大名や上級武士のために作られたオーダーメイド品の中には、漆や象嵌を施して作られた豪華絢爛なものさえあった。
この間、新式の燧石銃も知られていたが、命中率の低さから一発必中を好む武士や猟師には好まれず、普及しなかった。
職人達は泰平の世でも技術を絶やさぬため継承を続け、火縄銃としての基本を変えずに改良や新型の研究開発もされた。バリエーションとして騎乗で使用する馬上銃、拳銃型の短筒、グレネードランチャー級の大型銃、煙管や脇差、十手などに偽装した隠し武器としての銃、飛距離があり精密さを誇る狙撃用など。中には銃身を複数組み合わせたものもあり、三段式やリボルバーのような回転式といった変り種もあった。
幕末になると最新鋭のライフルがイギリスやフランスから導入され、射撃速度・射程・命中率が劣り、身体を伏せて装填・射撃する事もできない、時代遅れと化した火縄銃は、戊辰戦争の戦場ではあまり活躍を見せなかった。
明治時代になり、火縄銃は軍用では使われなくなるが、狩猟用ではライフルが普及するまで多用されていた。また、宮田工業のように技術を活用して民生品製造へ転業する事例も見られた。
太平洋戦争末期には物資不足と本土決戦に備え、江戸時代の火縄銃まで持ち出されたという。
現代では銃刀法のもとに管理され、競技として愛好されている。火縄銃は江戸時代に製作されたものが最も良質で性能が高いため、海外の選手も日本製の火縄銃を使っているそうな。
威力の高さが買われてか、堂々の攻撃力トップ(2000)に君臨。覇王ノブナガかうつけノブナガに南蛮鎧とこれを持たせると魔王ノブナガに変身する(ひらがな表記の「はおうノブナガ」は対象外)。
「爆炎・火縄銃」
炎の装飾が施された火縄銃。一撃の威力を高めた改良型らしいが、攻撃力は1600に下がってしまっている(それでも有数の火力ではあった)。
「四連火縄銃」
銃身を4つも取り付け、三段撃ちならぬ四段撃ちを実現したトンデモ武器(史実でも複数の銃身を持つ改良型は存在する)。
しかし2000で頭打ちなので流石に攻撃力8000とはならず、またDS版でも撃てるビームは1本である。ちなみにこれや爆炎・火縄銃では魔王にはならないので注意。
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