概要
所属事務所は「VERMILLION」。所属レーベルは「VERMILLION RECORDS」。ビクターとビーイングとの関係が解消される前はBMGビクター所属だった。リリース元も変更されているが、1990年初頭までの作品はBGMビクターを吸収したソニー・ミュージック側に権利が残されており、それらが便宜上初期作品として扱われることもある。
公式ファンクラブは「B'z Party」。
松本による「自らの音楽を表現できるバンドを創る」という構想のもとにバンド結成へ向けた活動を開始し、その最中に稲葉と出会い結成に至る。
打ち込みでは再現できないパートであるギターとヴォーカルのみで構成され、基本をハードロックに置きながらも、様々なジャンルの曲作りに挑戦している。
メンバー
名前 | パート | 生年月日 | 血液型 | 出身地 | 英字表記 |
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松本孝弘 | ギター・作曲・編曲・プロデュース | 1961年3月27日 | O型 | 大阪府豊中市 | TAK MATSUMOTO(※1) |
稲葉浩志 | ボーカル・作詞・編曲 | 1964年9月23日 | AB型 | 岡山県津山市 | KOSHI INABA(※2) |
(※1)1994年の14thシングル「Don't Leave Me」からでそれ以前はTAKAHIRO MATSUMOTO
(※2)1999年の26thシングル「ギリギリchop」からでそれ以前はKOHSHI INABA
2人組になった経緯
当初、松本はバンドを結成する計画でメンバーを探しており、稲葉と出会った以降も他のパートメンバーを探していたが、納得できるメンバーに巡り会えず最終的には「僕が曲を書いて彼(稲葉)が詞を書いて、歌ってギター弾いて、それで十分音楽は創ることが出来るので、敢えて他のメンバーは入れなかった」としている。
一方、ライブ、レコーディングについて松本は「コンピューターだけではライブ、レコーディングの良さを出せるとは思ってないから、良いサポートミュージシャンを選びたい」と語っている。
来歴
デビュー前
音楽制作会社のビーイングに所属。浜田麻里やTM NETWORKなどのバックバンドやスタジオ・ミュージシャンなどとして活動していたギタリストの松本孝弘は、「自分自身の音楽を表現できるバンドをつくる」という構想を実現するため、バンド結成に向けた活動を開始。
1988年5月、松本はビーイング社長であり音楽プロデューサーでもあった長戸大幸から1本のデモテープを渡される。そのデモテープには「Being音楽振興会」に所属していた稲葉浩志が、T-ボーン・ウォーカーの「T-BORN SHUFFLE」、レッド・ツェッペリンの「YOU SHOOK ME」、ビリー・ジョエルの「Honesty」を歌ったものが録音されていた。歌声を聞いた松本は稲葉を即ボーカルに採用することを決める。
当時、六本木にあった録音スタジオ「SOUND JOKER」にて2人は出会い、その場でビートルズの「Let It Be」、「Oh! Darling」をセッションした。ところがアンプの故障によりセッションは2曲で終了したため、その場はそれでお開きになっている。2人が次に出会ったときには何故かデビューに向けての準備が進められていたという。初めての出会いからデビューに至るまでが約4ヶ月と超短期間であり、2人の間にお互いの信頼関係や友情等がほとんどない状態でデビューしている。
デビュー後
1988年9月21日、シングル『だからその手を離して』とアルバム『B'z』の同時発売でデビュー。
デビューからしばらくは音源を制作してリリースすることで話題を繋いでいくという戦略であり、当時の松本には「アルバムを少なくとも2枚出す(自分たちで作った楽曲だけでライブできる)まで絶対ツアーはやらない」、「ライブハウスからではなく、はじめからホール展開でやっていく」というビジョンがあった。その代わり、ヤマハのモニターを務めていた松本が「ギター・セミナー」を開催し、セミナー後に同行していた稲葉とともにB'zを披露するキャンペーンで全国各地を回った。
しかし、デビューからしばらくは全く売れずオリコンランク圏外が続くなど苦戦の日々となった。
松本は「(時間をかけたわりにはほとんど売れなかったため)周りの関係者からお叱りをうけた」と語っている。
セミナーによるキャンペーンを除き、B'zが初めて観客の前でライブを披露したのは、1989年にTM NETWORKやFENCE OF DEFENSEとのSF Rock Station FINAL EVENT
『THANK YOU TM NETWORK』にオープニングアクトとして出演した時。松本は初めて稲葉がライブで歌っているのを横でギターを弾きながら見た時に、「これは絶対にいけると思った」と述べている。
彼らのブレイクのきっかけとなったのは1stミニアルバム『BAD COMMUNICATION』。この楽曲のタイアップが有線で話題となりオリコンチャートトップ10内に入らなかったものの、3年かけて163週にわたりチャートインし続けるというロングヒットを記録。1990年発売の3rdアルバム『BREAK THROUGH』、4thシングル『BE THERE』がそれぞれオリコンチャートトップ10入りを果たす。そして、5thシングル『太陽のKomachi Angel』で初のオリコンチャート1位を獲得し本格的にブレイクする。
1998年発売のベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』は日本国内の音楽史上で初めて売上枚数が500万枚を突破したほか、同年発売の『B'z The Best "Treasure"』との2作品合計で約1000万枚の売上枚数を記録。
1999年、前年に発売したベスト・アルバムのセールスなどにより『日本ゴールドディスク大賞』の「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」をはじめとする各賞、『ワールド・ミュージック・アワード』の「World Selling Japanese Artist of The Year」を受賞。
2007年、デビュー20年目を迎えるに当たり、アジア圏のアーティストとしてはで初となる「Hollywood's RockWalk」の殿堂入りを果たす。
2008年、ギネス世界記録から「日本でもっともアルバムを売り上げたアーティスト」の認定を受ける。
2011年~2012年にはペプシコーラ「ペプシネックス」TVCMキャラクターに起用され、初のCM出演となった
2020年、コロナ禍における活動として歴代のライブ映像作品を公式YouTubeチャンネルにて期間限定で全編配信した『B'z LIVE-GYM -At Your Home』、5週間に渡り毎週、選曲・ステージセット・サポートメンバーを総入れ替えして『B'z SHOWCASE 2020 -5 ERAS 8820』を開催した。
2021年、メンバー各々のソロ楽曲を含めた全880曲を各サブスクリプション(「Spotify」など)サービスで解禁された。
また、自身主催のRock project「B'z presents UNITE #01」、テーマをアルバム『FRIENDS』シリーズに絞った「B'z presents LIVE FRIENDS」を開催するなど、デビュー30年を過ぎ、新しい試みも行われている。
2023年現在、お互いソロ活動を並行して行っているためグループとしてのライブがなかった年(2004年、2014年、2016年)もあるが、何らかの形で新曲は毎年世に発表され続けておりメンバーの体調不良等に伴う活動休止も現時点で一度もなく存続している。
新譜リリースはアルバムのみでのリリースが多くなり、シングルは2017年の「声明/Still Alive」を最後に平成に出したっきりになっていたが、2023年に令和初のシングル「STARS」を6年ぶりに発表し話題を呼んだ。
ユニット名の由来
『B'z』というユニット名の由来は諸説色々あるがどれが本当なのかは定かではない(本人たち曰く「深い意味はない」)。下記にメンバー・関係者の媒体、書籍等でのインタビュー、コメントを記載する。
エースが2人、などの意味をこめて『A'z』(エーズ)としようとしたが、読みがしっくり来ない、当時社会問題となっていたエイズと発音が似ているなどの理由により、"A" の次の英文字の "B" に変更して『B'z』にした。
- ②企業のロゴのように意匠化しやすいイメージで「何か記号的、かっこいいものにしたかった」(3rdアルバム『BREAK THROUGH』のバンドスコアのコメント)
- ④「終わりにZをつけるのが最初に決まって、スタッフと考えた結果『B'z』になった」(1989年の会報インタビュー)
- ⑤「『B』から始まる名前は力強いバンドが多く、『B'zだと憶えやすそう』という意見があった」(2007年の会報インタビュー)
- ⑥「『ビートルズ(The Beatles)の"B"と、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)の"Z"』(2012年のWOWOW番組「only two」での松本のインタビュー)
音楽性
初期は打ち込みにギターを合わせた音楽スタイルであり、TM NETWORKに近いダンスミュージック(EDM)ビートをメインにしたサウンドであった。
しかし、1991年以降は打ち込みで人間的なノリを出すことにこだわり始めたことで音楽性をハードロックに変えていく。そして、レコーディングやライブツアーを重ねるごとに、サポートメンバーを含めたバンド感を出すようになっていく。
そして、ハードロックをベースとしながらも様々な音楽ジャンルを作品に取り入れていく形を経ている。
楽曲制作
B'zの楽曲は基本的に作曲を松本、作詞を稲葉が担当している。
ユニット結成当初から楽曲については「自分たちでなんとかする」という方針であり、自然な流れでギターの松本が作曲、ボーカルの稲葉が作詞になった。
基本的に松本が作るメロディやギターのリフ(弾き語り)など断片的なものから曲制作を行い、完成したデモテープと松本からメロディー、コードの指示を受けた稲葉が詞を書いていく、いわゆる「曲先」(一部「詞先」もあり。公式で「詞先」となっているのは12thアルバム『GREEN』の「Warp」)で制作されている。
アレンジャー(編曲)に関して当初は明石昌夫が単独で行い、1stミニアルバム『BAD COMMUNICATION』の頃から松本と明石で行っていたが、7thアルバム『The 7th Blues』レコーディングの頃から稲葉がスタジオ作業に具体的な興味が湧いてきたと述べており、8thアルバム『LOOSE』レコーディングから稲葉が制作当初から編曲にも参加、16thシングル『ねがい』で稲葉が初めて編曲にクレジットされた。
これについて松本は、デビュー当時からの制作体制「B+U+M」(後述参照)を解体して稲葉が編曲に参加したことは「”ターニングポイント”」と振り返っている。
レコーディング、スタジオ作業はこれまでロサンゼルス、東京、ニューヨーク、ハワイ、沖縄、福岡、大阪などで行ったことがある。
一方で、曲調全体がアレンジャーの影響を受けることも多い。そのためもあってB’zのアレンジャー担当は、下記の通り数年周期で変更されている。
B'zの歴代アレンジャー
担当者 | 担当期間 |
---|---|
「明石昌夫」 | 1988年~1994年 |
「徳永暁人」 | 1997年~2007年 |
「池田大介」 | 1995年~2007年 |
「寺地秀行」 | 2007年~2016年 |
「Yukihide"YT"Takiyama」 | 2017年~ |
松本によるとB’zの制作現場においては「”とりあえず何でも試してやってみる”」ということを一貫して行っている。これは、楽曲のアイデアを試す前にそれを否定してしまうとメンバー間のコミュニケーションの問題も起こり得る一方で、アイデアを実際に形にすることで、それまで個人で「”イマイチ”」だと思っていたことでも周囲の反応は「”良い”」と感じられることがあるからである。
この編曲作業の後に、ダビング、ミキシング、マスタリングなどを経て、楽曲は完成へと向かっていく。
「B+U+M」
「B+U+M」とは初期のB'zの音楽制作集団であり、名称は「B'z Unreal Music」のイニシャルに由来。ギターの松本とボーカルの稲葉で構成しているB'zであるが、「自分たちだけでは実現できない音楽を表現する」という目的で結成しており、楽曲の制作やライブサポートなどの活動を行っていた。
しかし、「B'zは2人である」という原点に立ち返るため、1994年発売の15thシングル『MOTEL』制作を最後に「B+U+M」を解散した。
「B+U+M」の解散については1994年のライブツアー『B'z LIVE-GYM '94 "The 9th Blues"』にて、当初はスタッフを含めB'zを取り巻く環境をずっと変えないで行こうと思っていたが、それが良くない方向に現れたため一度バラす必要であったと1995年のインタビューで松本が述べている。
ライブ
ライブタイトルは一貫して『B'z LIVE-GYM』(公演によっては『B'z LIVE-GYM Pleasure』、『B'z SHOWCASE』、『B'z Presents』)となっている。
これまでに日本国内のライブハウス、ホール、アリーナ、ドーム、スタジアム等、日本国外までの様々な会場で開催。延べ公演数は1000回を越えている他、各種音楽イベントにも出演している。
『LIVE-GYM』という名称については、当時所属していたレコード会社『BMGビクター』がB'zのライブに相応しい呼び名を考えた中でライブは身体を動かす体育会系みたいなもの。それにより体育をする為の施設である体育館の英語スペル「gymnasium」から最初の3文字を取ってGYMになったとのこと。
『LIVE-GYM』には定番となっているセリフがある。ライブ開演後数曲演奏した後、最初のMCにて稲葉が「B'zのLIVE-GYMにようこそ!」(SHOWCASEの場合は「B'zのSHOWCASEにようこそ!」)(言うまでに演出や寸劇が入ることもある)と叫ぶ。
ライブの最後はメンバー全員と観客による掛け声で、稲葉が「せーの!」と言うとメンバーと観客で「お疲れー!」と言い、「れー!」のタイミングで皆が拳を突き上げる。
そして、「お疲れー!」の後にEDSE(退場曲)として既発表曲のバーション違いや未発表曲を流している。未発表曲は次のシングルやアルバムに収録されることが多い。
2010年のライブツアー『B’z LIVE-GYM 2010 “Ain’t No Magic”』以降は『LIVE-GYM』のテーマソング「ひとりじゃないから -Theme Of LIVE-GYM-」をまず流して、メンバーがステージから履けた後にEDSEが流れる。
メディアへの露出
年間を通じて「楽曲の制作」、「ライブ」をメインとした活動を行っているため、テレビ番組等メディアへの出演は少ない。なお、『NHK紅白歌合戦』には一度も出場したことはない。
2023年現在、歌番組に関してはデビュー30週年を目前にした2017年を最後に一切行っておらず、令和に出演した歌番組は現在のところ一つもない。
ただし全く出ていないわけではなくドキュメンタリー番組のインタビューには快く応じており、ネットでは積極的に動画コンテンツをアップしているため、「活動拠点をテレビからネットに切り替えた」と言った方が正しいかもしれない。
また、音楽以外の活動(タレント・俳優等)も消極的である。理由として「今はみんながマルチに多少多様に活動をする時代だから、色んなフィールドで活動されているけど、僕たちは音楽一筋勝負していきたい、それがユニット活動を長続きするための秘訣です」と語っている。
主な記録
- 邦楽アーティストシングル・アルバムトータルセールス第1位(約8262万枚)。
- 歴代ミリオンセラー獲得数シングル部門:第1位(15作)。
- 歴代シングル総売上枚数:第2位(約3596万枚)
- オリコンチャート首位獲得数シングル部門:第2位(49作)。
- 歴代ミリオンセラー獲得数アルバム部門:第1位(19作)。
- 歴代アルバム総売上枚数:第1位(約4687万枚)
- オリコンチャート首位獲得数アルバム部門:第1位(31作)。
楽曲
B'zの楽曲一覧を参照