概要
主な勝ち鞍は皐月賞(1975年)、東京優駿(1975年)、東京4歳ステークス(1975年、現・共同通信杯)、弥生賞(1975年)、NHK杯(1975年)など。
1975年度優駿賞(現JRA賞)年度代表馬・最優秀4歳牡馬。
無謀ともいえる驚異的なハイペースで逃げるそのレースぶりから、「狂気の逃げ馬」の異名で知られる(メイン画像上の黒鹿毛の馬)。
プロフィール
英字表記 | Kaburaya O |
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性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
父 | ファラモンド |
母 | カブラヤ |
母父 | ダラノーア |
生産者 | 十勝育成牧場(北海道新冠町) |
調教師 | 茂木為二郎 → 森末之助(東京競馬場※) |
競走成績 | 13戦11勝 |
獲得賞金 | 1億7958万7000円 |
デビュー前
1972年
6月13日、北海道新冠町の十勝育成牧場で誕生。遅生まれで身体が小さく、人を見るとすぐ逃げるなど臆病だった。
父は現役時は11戦2勝ながら産駒には地方のダートにおいて好成績を残した馬もいるファラモンド。
母カブラヤは現役時32戦6勝で、産駒ではカブラヤオーの全妹に1979年のエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤがいる。
母父ダラノーアはフランス産で、種牡馬として1973年の桜花賞・ビクトリアカップの二冠牝馬ニットウチドリを輩出した。
また後に活躍した逃げ馬ダイタクヘリオスとは、祖母のミスナンバイチバンつながりで親戚である(カブラヤの半妹・ネヴァーイチバンの産駒)。
※カブラヤオーの現役当時はまだ美浦トレーニングセンターは建設途中であり(栗東トレーニングセンターは1969年に開場)、関東馬は東京競馬場及び中山競馬場の厩舎に所属していた(調教についてはこの2つの競馬場に加え、中山競馬場白井分場(後の馬事公苑白井分苑を経て、現在のJRA競馬学校)でも実施していた)。
競走馬時代
1974年
十勝育成牧場の共同経営者で母・カブラヤのオーナーの加藤よし子はカブラヤオーを売却しようとしたが買い手がつかなかった。牧場の共同経営者でもあった西塚十勝師(中山競馬場)に預けようとすると「馬房が一杯で空きがありませんので」と体よく断わられてしまった。何とか茂木為二郎師(東京競馬場)に引き受けてもらったが、カブラヤオーは調教でも全く走らなかった。
11月10日、東京競馬場の新馬戦(ダート1200m)でデビュー。ダイヤモンドアイの2着に敗れた。
11月23日、東京競馬場の新馬戦(芝1200m)で初勝利。逃げ戦術を確立。
12月15日、ひいらぎ賞(500万下)で1着。
1975年
1月19日、ジュニアカップ(600万下)を10馬身差で圧勝。
2月9日、東京4歳ステークスでテスコガビーとの対決を制する。
3月1日、弥生賞で1着。
4月13日、皐月賞では、1000m通過58秒9という当時としては異常なラップで逃げ切り勝ちし、「狂気のハイペース」「殺人ラップ」と称された。実際、レイクスプリンターが予後不良となった。
5月4日、NHK杯では逃げず、大外を回っての差し切りで6馬身差の圧勝。
5月25日、東京優駿では皐月賞より距離が長いにもかかわらず1000m秒58秒6という更なるハイペースで逃げを打つ。当時のダービーは今では考えられない28頭立てという大レースだったが、ほぼ全頭がカブラヤオーのハイペースのせいでバテバテになり、カブラヤオー自身もバテバテだったが他の馬が近づいてくると慌てて再加速して逃げ切った。あまりの必死さに観客どころか実況者までも応援してしまったほどであった。
9月下旬、蹄鉄を交換する際に左前脚の蹄を削りすぎたせいで屈腱炎を発症し休養となる。そのために菊花賞に出られず三冠はならなかったが、クラシック二冠を含む6戦全勝という実績が評価され、この年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬を受賞している。
1976年
5月22日、東京競馬場のオープン戦に出走。1年ぶりの復帰で勝利を飾り9連勝となる(JRA発足後の中央平地競走最多記録。地方交流を含めればスマートファルコンとタイ。なお、オジュウチョウサンは平地と障害競走で11連勝している)。
6月2日、中山競馬場のオープン戦に出走するが、スタートでゲートに頭をぶつけ脳震盪を起こしノボルトウコウの11着に敗れ、生涯唯一掲示板を外した。
7月25日、短距離ステークスに出走し1着。
9月18日、東京競馬場のオープン戦に出走し1着。天皇賞(秋)を目指して調整していたが、屈腱炎が再発し引退となった。
引退後
1977年
日本軽種馬協会胆振種馬場(北海道白老町)で種牡馬として供用される。外国産の種牡馬が持て囃される時代であり、地味な血統のカブラヤオーの種付け数はなかなか上がらなかった。
1988年
11月13日、ミヤマポピー(タマモクロスの半妹)がエリザベス女王杯を勝ち、GⅠホースの父となった。
1997年
種牡馬を引退。那須野牧場(栃木県那須町)に移動し余生を送る。
2003年
8月9日、老衰により死去(31歳)。
余談
- 「狂気の逃げ馬」はカブラヤオーを端的に表した異名。オーバーペースの逃げを展開して他馬の足を乱し、周りをヨレヨレにして一頭だけ走り切るというもの。サイレンススズカのような速度特化やセイウンスカイのような技巧派ではなく、破滅的な大逃げ戦法(別名「玉砕戦法」)である。皐月賞でカブラヤオーと激しく競り合ったレイクスプリンターは右後脚を骨折して安楽死処分となり、鞍上の押田年郎騎手は「あの馬は普通じゃない、化け物です」と涙ながらに語った。
- レースの様子を見ると馬群恐怖症というよりもはや馬恐怖症のレベルであり、近づかれるたびに右へ左へヨレるほど。現代であれば降着や騎乗停止もあり得たかもしれない。デビュー戦では普通の競馬をしようとしたら怖がって外側の柵まで逃げていった。そのため、逃げてみたところ、カブラヤオー自らが必死で逃げ、戦術が確立した。
- 逃げ戦術を採用したのは幼少時に他馬に蹴られて、馬込みを極端に怖がる様になったためであると、引退10年後に明かされた。現役時代は重要機密だったが、皐月賞でもダービーでも危険を承知で競りかけてくる馬がいたため、薄々勘付かれていたのかもしれない。
- 東京4歳ステークスで菅原泰夫騎手はテスコガビーの方に騎乗しており、カブラヤオーの弱点を周囲に知られないよう先頭に立たないようにした。本気で勝負していたら結果は違ったのかもしれない。
- 岡部幸雄は自身が主戦騎手を務めたシンボリルドルフについて、「ディープインパクトでもシンボリルドルフなら勝てる」と発言したが、対カブラヤオーに関しては「ダービーの時のカブラヤオー相手にはルドルフでも勝てたか分からない」と述べた。
- 漫画・みどりのマキバオー(つの丸)ではミドリマキバオーがダービーで逃げ戦術を取った時、飯富昌虎調教師がこの馬を引き合いに出してきた。『1万頭に1頭という強い心臓とここ一番の勝負根性』