グループB
ぐるーぷびー
概要
1981年に国際自動車スポーツ連盟(FISA)が制定した競技用自動車のカテゴリーのひとつで、WRCやラリークロスなどにおけるグループ4規定の後継である。
ホモロゲーション(カテゴリー認定の条件)取得の条件として、「連続する12ヶ月間に200台生産すること」と定められた。グループ4の時代と比べると半分である。
これは70年代、オイルショックによって各メーカーがWRCから続々と遠のいてしまったため、彼らを呼び戻すために負担を軽くするためである。
目論見どおり、続々と各メーカーが参戦を表明し、WRCは隆盛を極めた。
「ワークスとして選手権に参戦する車両はエボリューションモデルを20台を作ればホモロゲを認める」という文面が追加されてからは、ケプラー樹脂やカーボンでできたボディを鋼管フレームで製作し、1トンを切る軽量ボディに600馬力クラスのエンジン、4WD+ミッドシップ+ターボは当たり前というとんでもないマシンが続々と登場。「公道を走るF1」とか言われるくらいのとんでもない速さを誇った。
とにかくスピードを追求した技術者たち、操縦性もへったくれもないマシンを操るドライバーたち、その暴力的な走りに魅了されたギャラリーたち、まさに狂気と熱狂に満ちた伝説の時代である。
しかし、行き過ぎた開発競争はやがて事故という形でその危険性が表面化した。1985年に2件のドライバー死傷事故が発生したのを皮切りに、1986年には観客を巻き込んだ事故も発生。
FISAは「もう市販車と別物だから新しいプロトタイプカー作ったほうが安全なのでは?」とさらに公認条件がゆるい代わりに300馬力程度に規制する「グループS」に移行しようとしていたが、その議論のさなかに死亡事故が連発。1986年ツール・ド・コルスでのヘンリ・トイヴォネンの死亡事故が決定打となってグループBは廃止され、それ以降のWRCは従来下位クラスであった「グループA」で競われることになった。
突如としてWRCの舞台から下ろされたグループBのマシン達であったが、その後パリダカやパイクスピーク・ヒルクライム、ラリークロスなどに流れて大活躍した。JGTCのGT1クラス(現在のSUPERGT・GT500クラス)でも、1994年の第3戦(富士スピードウェイ)だけだがランチアの037がスポット参戦した記録がある。
また競技で使用できなくなったマシンはメーカーが保管していたりコレクターの手に渡るなどしているが、デルタS4の様に日本のナンバーを取得して一般道を走っている個体も存在する。
なお上記のイメージからハイパワー車両ばかりと思われがちだが、実際はグループB9〜12※まで排気量によって分けられており、小規模メーカーたちによる小排気量自然吸気エンジンのFF車によるグループBマシンも多く存在した。またアフリカではピックアップトラックがグループBの公認を取得した事例もあった。
※最も改造範囲の狭いグループNがN1〜N4、その次に狭いグループAがA5〜A8まで設定されていたため、グループBは9から始まっている。
WRCにおけるグループBの歴史
1982年
移行期間の一年。前年のグループ4規定でアウディがターボ×4WD(四輪駆動)の初代クワトロをWRCに持ち込み、既に4WDの優位性が認められ始めていた。アウディはグループBでも前年の課題を克服したクワトロの4WDを投じ、女傑・ミシェル・ムートンがドライバーズランキング2位につけるなどしてアウディがマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。しかしドライバーズ/コドライバーズはオペル・アスコナ400がグループ4規定・FR車最後のタイトルをヴァルター・ロール/クリスチャン・ゲイストドルファー組の手で飾っている。
またこの年、ランチアはグループB用にMRのラリー037を投入している。
日本勢では日産がマニュファクチャラーズ選手権で3位につけているものの、2位のオペル・1位のアウディとはほぼ倍の大差であった。
1983年
正式なグループB元年。クワトロとラリー037の一騎打ちであった。
ミッドシップとはいえ2WD(FRレイアウト)のランチアは非勢に立たされたが、ランチアの規則の裏をかきまくるえげつない作戦と前年王者のロールの腕前で互角に持ち込み、ドライバーズ/コドライバーズはアウディが制するも、マニュファクチャラーズはランチアという結果となった。
しかしシーズン終了後、2WDの不利とランチアのラリーに対する姿勢にうんざりしたロールはアウディへと移籍した。
1984年
マシン熟成とドライバーラインナップ刷新をしたアウディが圧倒的な速さでマニュファクチャラーズ/ドライバーズ/コドライバーズの3冠を達成するが、前年からスポット参戦を続けてきたプジョー205ターボ16が反撃の兆しを見せてきた。外見は205をワイドにした程度だが、中身は+1,800ccターボ+ミッドシップ+4WD+車重1t以下という正にモンスターマシンである。特にミッドシップ+4WDというレイアウトは当時未知のものであったが、プジョーの開発陣の優秀さがこれを結実させた。こうなるとフロントエンジンのアウディは回頭性で不利になり始めた。
サファリラリーでは初めてアフリカイベントに参加したトヨタ・セリカが初優勝しており、以降86年まで3連覇を果たすこととなる。またこの年をもってオペルが撤退している。
1985年
前述のプジョー205が圧倒的な強さで3冠を達成した年だが、同時にグループBの危険性が表面化した年でもある。1tそこそこの車重に450~600PS(デルタS4は最終的に870PSにもなる)前後のハイパワー、さらに空力性を上げるためのエアロがついた事もその理由である。こうして速さだけを求めた結果として、ドライバーが制御不能な領域に達してしまった。
この年に037駆るアッティリオ・ベッデガがツール・ド・コルスで木にぶつかり死亡。またプジョーのアリ・バタネンはアルゼンチンで大クラッシュを起こし瀕死の重傷を負ってしまう。
トリフラックスエンジンと4WDで武装した、ランチア・デルタS4がようやく投入された年でもある。
1986年
連発する重大事故は収まるところを知らず、ポルトガルでワークス参戦していたフォードのRS200が200km/hで観客席につっこみ、死者3名を含む40人以上が死傷する大事故を起こした。
そして第5戦のツール・ド・コルスでこの規定の終わりを決定づける事故が起きる。ヘンリ・トイヴォネンの駆るデルタS4が(緩い)左コーナにノーブレーキで突っ込み崖下し転落、直後に爆発炎上、彼はコドライバーのセルジオ・クレストと共に死亡した(この事故はヘンリの弟のハリがWRCから引退するきっかけにもなった)。FISAはWRC/グループBで死亡事故が相次いだ事態を重く見て86年限りでグループBを廃止とした。これに伴ってグループSも施行前に消滅となった。
シーズンはランチアの2番手ドライバーだったトイヴォネンの死亡事故の影響もあったが、ユハ・カンクネンの駆る205ターボ16の活躍により、プジョーが完全無欠の2年連続のダブルタイトルを手にした。
生産されたものの公認取得ができなかった車両
- ポルシェ・959 - 生産されたがグループB消滅後の為。
- 三菱・スタリオン4WD - グループBに投入する予定だったが間に合わずプロトタイプクラスで参戦。また、ランエボの4WDシステムの開発用としても使われた。
- トヨタ・222D - AW11風のグループSマシン。グループB消滅のため公認が取れなかった。
- マツダ・サバンナRX-7 - FC3S風のグループSマシン。同上。存在自体があまり知られていないが、2台制作された試作車のうち1台が北海道で発掘され、2014年にイベントに展示された。
以下はグループS版デルタS4
- ECV - 小径ツインターボとトリフラックスエンジンに変更したもの
- ECV2 - ハイテク素材と空力改善のテスト用。冷却系を改良し水冷式I/Cに変更されている
余談
今でも「WRCといえばグループB」というファンは多く、車両規定が改訂されるたびにグループBと比較するのがお決まりの光景となっている。特に2017年の市販車離れをしたフォルムとなったWRカー規定や、2022年の鋼管フレーム化で(モーター込みだが)最大500馬力以上となったラリー1規定などは「グループBのようだ」などとメディアが報じていた。
しかし実はタイムだけで言えば、グループBは1990年代のグループAには既に劣っていた。グループAはわずか300馬力であったが、四輪駆動を含めたシャシー制御技術とタイヤの進歩が凄まじく、エンジン出力よりもコーナーリング性能が重要なラリーでは圧倒的に優れていた。
「モンテカルロでF1マシンより速かった」というのも、ヘンリ・トイヴォネンがF1マシンで出したタイムが混同されて広まったデマである。
今日のグループB神話は、長い年月を経て懐古の対象となった結果の過大評価と言える。
とはいえ、その事実はむしろグループBの特異性の証明でもある。後世の倍の出力のエンジンを、当時の未熟な技術で製造されたシャシーに載せて、ドライバーが全開で振り回していたのだから。そしてWRCの歴史上、危険性を理由に規定そのものが廃止されたのはグループBだけである。
そういう意味で、良くも悪くも「狂気」の時代だったことは間違いない。
グランツーリスモではスピンオフ作品の「SPORT」からグループBを元にしたGr.B規定が登場。とはいえ、同作から追加されたグランツーリスモオリジナルのGr.Bラリーカーが多いが、史実で活躍した205ターボやスポーツクワトロもいるが…なお、なぜかグループNラリーカーであるセリカラリーカーもGr.B扱いである。