概要
元々は王騎を輩出した王家の本家に相当する名門の一族を中心とした軍。
後に作中で明らかになる話では、元秦国六大将軍の一人胡傷に「軍略の才だけで六大将軍の席に割って入ることの出来る」、趙三大天廉頗から「白起に匹敵」、秦国内では「王騎と同等」と評価されるほどの逸材であるが、実は作中開始時点ではそこまで有名な武将では無かった。
というのも秦国王昭襄王の時代では自分が王様になりたいという野望を抱いており、秦国一の危険人物として冷遇されていた。
この間、従軍していたかは不明だが、少なくとも作中で初登場した山陽攻略編時点では蒙驁の副将に在籍し、蒙驁の亡き後は秦国武将として頭角を現すことになる。
蒙驁が王翦を起用した理由は明らかではないが、蒙驁は元々出自を気にせず公平に評価を行う人物である。
作中では出自が野盗の桓騎を副将として起用した他、山陽攻略編では信を一時的に千人将に昇格させた実績があるため、王翦の危険思想もまた蒙驁の評価対象では無かったのだろう。
王翦軍の特徴としては、心理戦によりそもそも戦いを避ける、あるいは戦うとしても自分のペースを崩させずに勝つといったもの。
明確に戦いが描かれた山陽攻略編と合従軍編では、自軍の存在を見誤らせることでそれぞれに不意を突く戦術を取っている。
ただし山陽では相手が相手だったため不意打ちは失敗しているが、王翦はそれさえ織り込み済みのため、武将でも戦術レベルに組み込むのは稀とされる築城を行ない自軍の態勢を立て直し、結果的に山陽戦を勝利に導いている。
とはいえこの点は裏を返せば、自分のペースで戦えなければ敗けるという単純な対策が可能とも言える(もっともそれができる状況は極めて限られるのだが)。
鄴編の朱海平原の戦いのような身も蓋も無い表現をすれば王翦軍としては策らしい策が無かった状況や、番吾の戦いのような単純な策に終始させられるように李牧が動かした状況の場合、王翦軍としては実質敗北し、後者は特に王翦軍を狙い撃ちする短期決戦の策であったため、秦軍全体の敗北に繋がった。
また、王翦軍が下した敵兵や敵武将を自身の傘下にスカウトすることが挙げられる。
作中では少なくとも姜燕や慶都城の投降兵、果ては自軍の蒙恬や趙三大天以前に趙国宰相の李牧すらスカウトしようとしていた。
恐らく様々な城を落としては多種多様な人材を登用しているため、作中の飛信隊で見られたやっかみのような事態に陥ってもおかしくなさそうだが、スカウトにあたっての条件提示は投降兵の皆殺し、または王翦を主君として服従を誓わせるという二択。
当然の話ではあるが、命惜しさに王翦軍に従っているなら彼らは王翦軍として振舞わなければならず、王翦はまさに名前通り王翦軍の「王」としてふるまっている。
このため武力としては相応に高く、王翦のスタンスである「絶対に勝つ戦以外興味はない(=戦うからには必ず自軍が勝利する)」も相まって明確な敗北は800話余りの『キングダム』作中でも番吾の戦いのみという極めて高い勝率を誇る。
また、王一族と言えば、息子の王賁も跡取りという立場にあるが、作中開始時点では玉鳳隊(玉鳳軍)は王翦軍の傘下に含まれていない。
王翦が王賁と距離を置いているのは作中から明らかだが、その理由は不明。
この関係性は軍も同様だが、作中の軍略上の都合(玉鳳隊は飛信隊や楽華隊と同様に独立遊軍に位置付けられる)も理由に含まれる可能性はある。
とはいえ作中では、建前はどちらも総大将の指揮下の軍略上の都合といった向きが強いものの、鄴と番吾では共同作戦を行なっている。
だが王翦は窮地に立たされることも多く、王賁はこの2つの戦いでは王翦の討ち死を回避する動きを見せた。
国家観
王翦は作中で自身の領内を「くに」と表現することがあり、上記の通りその最終目標は自身が国家の王になることである。
王翦の具体的な国家観に対する説明は現状見られない。
だが、作中で王翦がスカウトしようとしている人材はいずれも戦争で自らが下す相手や自分に近しい戦争の知略をもった人物に限定されている。
下記の姜燕をスカウトする際「私の"領内(くに)"はうぬのような戦の強い男を必要としているのだ」と発言している他、朱海平原15日目の李牧のスカウトの際「歴史の重みで国が救われるものではない。上に立つ者共が馬鹿の集団であれば、それだけで国は亡(ほろ)ぶ。(中略)お前たち(李牧軍)が命がけで尽くしても上のせいでそれはどこにも実を結ばぬ。(中略)その才覚(前後の文脈から推測すると戦争に対する武力や知力と考えられる)を虚しくするなと言っておるのだ」とも発言している。
これらの発言から最終的な終着点としては武力を至上とする国家であることは間違いない。
武力あるいは知力の高さによって生活が豊かになる国家であるとすれば、王翦の傘下将軍や王翦兵などがその思想を支持するのは当然の話だろう。
また、作中の世界観では未だ王族が国家の主権を得るのが主流であり、王翦の思想は同時に既存の王族の淘汰に繋がるため、反発されるのもまた当然である。
昭襄王の時代から冷遇されていたのは単に昭襄王のみならず士族や他の王族からの反発もあったと考えるのが妥当であるが、仮に実現してしまったら彼らの立場が無くなるというのも理由に含まれているのかも知れない。
それ以前に王翦という人間自体があまりに自分本位であるため、自分に都合の悪い話には乗らない、即ち他の王族や士族との協調性に欠けるのが直接的な原因であったとしても、結局は王翦は自己主張だけは行うものの他者との連携を意識しない、あるいは対話しないのであれば、避けられるのは当然だろう。
作中で王翦が起用されつつあるのは、昭襄王や六大将軍がこの世を去ったことで引退する士族や隠居した王族、即ち武将の世代交代や政権交代により王翦が考える「馬鹿の集団たる上に立つ者」が少なくなったことで、上記の反発が薄れたためとも考えられる。
一方、李牧が「あなたは国を亡ぼすことはできても、国を生み出すことはできない」と否定したように、(上記の推測の延長だがただ上の人間の淘汰を期待することや、)例え客観的に見て愚かだろうと他国の宰相に対し他国の王族や歴史を侮辱するような人間が目指す国家というのは、恐らく建国自体が不可能だろうと考えられる。
国とはあくまで歴史の上で成り立つものであり、将来的に今の王族が愚かであり反乱により亡ぶ可能性があるとしても、それは歴史の上で数えきれない人間が生活あるいは知恵を絞って尽力した結果が毀損されたためであろう。
無論、他国を侵略する立場である秦国の武将が、他国の王が愚かであるからと秦国が攻めることを正当化するのはもってのほかである。
また、仮に上記の推測通りに王翦の考える国家が武力至上主義であるならば、『キングダム』では以下の点で問題となる。
まず、後世の戦争を無くすために戦争を行なっている秦国王・嬴政と相反する。
なぜなら武力が強いと認められるには、当時の世界観なら世界に戦争が存在しなければならないからである。
単に畑仕事や力仕事ができるだけで良いなら武力の有無は関係ないし、武力が高いのなら力仕事などは当然行えるはずなので、王翦が建国する必要性がほぼ無くなる。
即ち王翦は戦争がある世界を肯定している上、戦えなくなった人材を淘汰しかねない管理社会的な体制を作りかねない点で、他の戦国七雄の王族と似た考え方をしている恐れがある。
次に、「天下の大将軍」という存在と相反する。
この考え方は意外なように思うが、山陽攻略編で廉頗が語った内容を鑑みると存在自体を否定していてもおかしくない。
「天下の大将軍」とは秦国六大将軍、趙三大天、魏火龍などが戦いを繰り広げ領土の奪い合いをした結果、ほぼ作中現在の中華を成立させた時代を生き抜いた大将軍を指すが、廉頗が信に提示した「天下の大将軍を超える天下の大将軍」の条件こそがまさに中華統一であり、即ち上記の嬴政の考え方と合致してしまうのだ。
また、これは邪推だが、かつての「天下の大将軍」が今の戦国七雄の成立に大きく関与しているならば、「天下の大将軍」によって今の自分たちの生活が成り立っているとも言える訳で、悪く考えれば「天下の大将軍」が今の自分たちの人生を決めてしまったとも解釈できる。
例えば戦争は本来ならしないのが望ましい、それは誰だって考えるだろう。
しかし戦国七雄が存在できるのはその名の通り「戦国」、つまり事実として戦争を止められない、戦争に参加し防衛ないし勝利できたから存在できているのである。
作中の世界観で強制徴兵という形が取られる描写は少ない(秦国については韓攻略の強制徴兵が最初、他国は韓攻略時点で明かされていない)ため、戦争への参加は余程の事情が無い限りは任意の形を取っているものの、仮に戦争に参加し生き残る、あるいは武功をあげれば多大な報酬が得られそれで家族を養うことができるという経済システムが成立していたからこそ、今の戦国七雄が成立しているのである。
ともすれば、大半の男性は多大な報酬を目的に出稼ぎを行なう感覚で戦争に参加し、戦争に参加した男性の彼女や妻は帰りを待ちながら家事を行なったり子どもを養ったりなどのライフスタイルが確立される。
しかし、現在の日本のように戦争が無く定職さえあれば最低限の生活ができる世界を望むことはできないのか?
作中ではその対話が欠けている、あるいはお互いに剣を取り合うことでしか対話ができないために戦争が続き、その戦争における有用性によって一族の存続が決まってしまう世界観、端的に言えば戦争に出なければ評価されない家柄なんてのも出てきてしまうのだ。
王翦の一族はまさに戦争の存在によって評価される武家である上、分家である王騎が「天下の大将軍」になってしまったため、王騎以上の武功を生み出せる戦争が無ければ一族としてのアイデンティティも失われてしまうのである。
まあ作中の王翦がそこまで考えているかは不明(何なら嬴政が中華統一後にどのように統治するのかを世間的に公表したかさえ不明なので、王翦としても判断材料が十分揃っているかが分からない)だが。
ちなみに、昭王の全盛期でさえも六大将軍の陰から出られなかったとして蒙驁と張唐が六大将軍を嫌悪していたことが合従軍編で語られている。
王翦もまた六大将軍胡傷に評価されていながらも昭王の時代から冷遇されていたことを鑑みると、「天下の大将軍」や昭王を心情的に毛嫌いしたとしてもそう不思議ではないだろう。
ともあれ武力を至上とするのであれば、それは即ち武力または知力を持つ人間の才能によって形成される国家であり、当時の世界観で鑑みると結局は血筋に帰結しかねない、つまりは王翦が否定する「馬鹿の集団たる上に立つ者」の微々たる差にしかならない未来が待っており、いずれにしても王翦が国を生み出すことはできないのは確かだろう。
史実の王翦は最終的に反乱を起こさないように立ち回っていた、つまり王翦の思想は引退するまで付いて回り最終的には根折れしたと言える訳だが、王翦や王翦軍の国家観や思想は今後の『キングダム』における秦国を揺るがす事態に発展する可能性はあり、注目すべきポイントと言える。
来歴(ネタバレ注意)
元々は秦国六大将軍胡傷から高く評価されるほどの軍才を持つ他、胡傷の弟子である現秦国軍総司令・昌平君も同様に函谷関防衛の要、鄴や番吾のような大規模な戦いの総大将に任命するほど評価していたが、昭襄王の頃は自らが王になりたいという野望を抱いている噂が出回り、逆に秦国一の危険人物と考えられていたため冷遇されていた。
ただし、紀元前249年の昭襄王の崩御後、3年余りの間に安国君→荘襄王→嬴政へと政権は変化したが、遅くともこの頃には昌平君が軍総司令に就き王翦を起用し、作中で初登場した紀元前243年(始皇4年)の山陽の戦い時点で桓騎とともに蒙驁の副将として従軍していたのは明らかである。
ちなみに、合従軍編で王翦軍が姿が一時的に姿が見えなくなっていた際に昌文君は上記の危険思想に言及したが、呂不韋は王翦の思想を知らなかったことから、昌平君が上記のように起用したのも、王翦の実力の他にも為政者の政権交代や秦国武将の世代交代を含め噂による反対が少なくなっていった事情も考えられる。
また、桓騎が蒙驁軍に加入した経緯や肥下における桓騎の台詞「今まで全部(の戦に)勝ってきたこの俺を」を踏まえると、時期は不明ながら桓騎の加入後に蒙驁軍に加入した可能性が高い。
作中の来歴としては、紀元前242年(始皇5年)の山陽攻略にて秦軍左軍を指揮して姜燕軍と対峙。
壁軍を囮に使い窪地に姜燕軍を誘い込み包囲、一時的ながら敗北を認めた姜燕に対し王翦は姜燕をスカウトしようとしていた。
この時、とてもただの一将軍では行えないような好条件を与えようとしていたのに加え、「私の"領内(くに)"はうぬのような戦の強い男を必要としているのだ」と明言している。
しかしこの「窪地に姜燕軍を誘い込む策」自体は、同時に廉頗が読んでいた策であった。
間もなく廉頗が現れたことで分が悪いと判断し「私は"絶対に勝つ戦以外興味はない"」と廉頗に言い後退、秘かに築いていた山砦に籠城することとなったが、山砦までを含めた廉頗による王翦に対しての評価は「己(王翦)の存在(命)をこの戦争の秦軍の最上ととらえている」、即ち自分を第一あるいは最上と考える武将であることで周りから信頼されないために冷遇されたと推測した。
先に記載するが、この評価は的を射ており、討ち死に寸前まで追い込まれた鄴や番吾では特に自身が窮地に立たされているにもかかわらず本陣を動かそうともしなかったために王翦軍全体を窮地に陥れている。
とはいえ山陽戦では、廉頗が蒙驁との直接対決していた時点で桓騎により魏軍総大将白亀西が討たれていた上、結果論ではあるが王翦がほぼ万全の状態で兵を残し魏軍の背を撃つことができた状況で魏軍は詰んでいたため、間接的ながら山陽攻略の勝利に貢献した。
なお、「間接的に」貢献したとは、論功行賞でも蒙驁・桓騎・飛信隊の信のような評価が無かったことも含めた意味である。
紀元前241年(始皇6年)、函谷関防衛では燕軍総大将オルドと対決。
王翦が自身の砦から姿を見せたと思ったら後退されたので、それを追撃しようと思ったら王翦軍の伏兵により主攻を失ったため、王翦軍の砦に留まらせるといった心理戦でオルドを下した。
さらに、オルドを動かせないように仕向けたことで、函谷関の裏手に現れた楚国媧燐精鋭部隊に王翦軍をぶつけることに繋がり、函谷関防衛の勝利を決定的にしたが、論功行賞では蒙武以外の他の武将と同列の特別論功となった。
紀元前240年(始皇7年)、蒙驁の死により秦国の将軍の一人となり、魏の城である慶都を落とし、投降兵を自身の軍門に下した。
紀元前239年(始皇8年)、秦趙の国境にある拡陽(かくよう)城の防衛にあたっており、同時期に騰が著雍侵攻を行なっていたため、こちらに援軍を要請するものと読んでいたが、結果的に援軍は送らずとも著雍を奪取したため出番は無かった。
紀元前236年(始皇11年)、王翦を総大将とし、桓騎・楊端和、壁軍、飛信隊・玉鳳隊・楽華隊を中心とした20万人に及ぶ連合軍が鄴へ侵攻。
元々は昌平君から策を授かっていたが、鄴城の正攻法による城攻めが困難と判断した王翦は昌平君の策を捨て、鄴城の周囲にある城を侵攻させ、城民を鄴城に集中させる兵糧攻めに切り替えた(なお、この時の王翦は「この王翦と李牧の知略の戦い」と主要メンバーに説明している)。
だが、兵糧攻めと気付いた李牧は当然、鄴城の周囲にある城から兵を集め秦軍に差し向けるため、兵糧攻めを成功させるには、鄴城に集結しようとする軍を鄴城に近づけさせないこと、鄴城から兵糧攻めに重要な要員である鄴の城民や他の城から鄴城に流れてきた他の城の民を鄴城から出さないようにする必要があった。
このため、他の城からの侵攻防衛を桓騎軍以外の全軍、鄴城の包囲を桓騎軍が務めることとなった。
以降の記載は前者のみとし、後者の桓騎軍は作中ではただ椅子に座っているだけなので省略する。
実際の所、李牧が兵を集中させ秦軍を迎撃できる都合の良い城は橑陽(りょうよう)城と閼与(あつよ)城の2つしかなかったため、秦軍の対策も事実上これらの迎撃であり、王翦は閼与城(朱海平原)で李牧と頭脳戦を繰り広げた。
なお、後述の宜安(ぎあん)侵攻時に閼与城に侵攻しているが、鄴攻略の現状では閼与城に侵攻しておらず、あくまで鄴城への迎撃を食い止めるに留まったためである。
初日に麻鉱を失いながらも、鄴城に他の城の民に紛れた王翦兵を潜伏させ、鄴城の食糧を焼き、昌平君に斉国から鄴に向けて食糧を届けるように仕向けるなどの策を講じたことで、最終的に鄴侵攻を勝利に導いた。
紀元前233年(始皇14年)、六大将軍第三将に任命され、影丘の攻略後に武城(ぶじょう)城に侵攻。
その際に趙の首都・邯鄲南部に長城が張られていたために王翦は趙北部の宜安城侵攻を示唆し、昌平君の号令及び作戦により宜安城侵攻を開始。
道中で閼与城を侵攻したが想定の3倍以上の被害が出た上、情報封鎖の影響で狼孟(ろうもう)軍や青歌(せいか)軍の迎撃が想定されたことで閼与城以降の宜安攻めに参加できず、結果的に桓騎軍の全滅及び秦軍敗北の要因となった。
紀元前234年(始皇15年)、再び趙北部の番吾(はんご)城侵攻を行なうも、軍容が鄴侵攻と同じだったこと(桓騎軍は肥下で全滅した他、その他の秦軍も橑陽城や閼与城の迎撃メンバーしかいない)や戦略を単純化するために不確定要素の多い飛信隊や玉鳳軍を李牧の陽動によって前線から引き離したことで王翦得意の戦略が封じられた結果、青歌軍を中心にした趙軍に敗れ、王翦は生き残ったものの番吾時点で登場していた(倉央以外の)王翦傘下将軍及び王翦兵は全滅した。
その後、敗戦の将として責任を負わされ更迭された……というのは建前で、実際は生き残った兵とともに肥下戦で奪取した閼与城に戻り王翦軍の立て直しを行なっていたが、被害が尋常では無かったため、韓攻略の時点で復活の目処は立っていない模様。
主要構成員
※階級は判明している現在の物。戦死者は最終階級の物。
大将軍
上述の流れを経て六大将軍第三将になる。
なお、王翦自身が作中で戦う描写は非常に少なく、桓騎のように名前のある敵将すら直接手を下した描写は無い。
相手が廉頗四天王でスカウトしようとしていた姜燕や趙滅亡に立ち向かう李牧などの趙軍ばかりなので無理も無いように思えるが、それを差し引いても王翦自身の武力はそこまで高くないのも要因である。
王翦が殆ど戦わない理由は王翦のスタンスである「私は"絶対に勝つ戦以外興味はない"」「負ける戦は絶対に始めない」、そして廉頗の推測である「自分を第一あるいは最上と考える武将である」ことを踏まえると、自身を中心とした統制を行なっているため、自身が最前線で出張る、あるいは自身の戦略的撤退ですらない敗走が、軍としての瓦解につながりかねないためと考えられる。
自身の武力自体はあくまで一般的な兵士より少し強いくらいだが、自身の知略と周りの武力でそれらを補う戦法により、番吾以前は勝利し続けてきたのだろう。
傘下将軍ほか(番吾以前)
- 亜光(あこう)
王翦軍第一将。
武力面における信頼は王翦から特に高い。
王翦の軍略についても明るい方だが、それ以上に小細工を好まず自身と自分の分身とも呼べる自軍の兵による武力頼りの強引な力技を好むため、必ずしも王翦の軍略に沿うとは限らない。
とはいえ王翦の使用する戦術自体は使える上、自身の武力の高さも相まって正面からのぶつかり合いでは無敗を誇っていた。
だが、鄴では9日目に馬南慈などの読みが当たったことで窮地に立たされ、戦死こそしなかったが負傷している。
また、番吾では李牧の陽動に乗ってしまったことで結果的に負傷し、司馬尚相手に力尽きる結果となった。
- 麻鉱(まこう)
王翦軍第二将。
鄴では朱海平原の戦い初日に李牧の急襲に遭い戦死するかませ犬となってしまった。
戦死後、亜光以外の傘下将軍の序列が一つずつ上がっている。
- 田里弥(でんりみ)
王翦軍第三将→王翦軍第二将。
王翦軍随一の智将であり、主に王翦の補佐を担当。
序列としては第三将ではあるが、実は王翦の軍略を最も理解している人物。
番吾戦の回想によると百人将の頃にその軍略の理解を見出されたことで、一気に千人将に上り詰めた。
また、王翦の軍略への理解が深いということは、同時に王翦の心境などに対しても最も理解が深い、即ち王翦の良き理解者であったことも示し、番吾戦で他の傘下将軍が討たれた際でさえ王翦の表情は変化しなかったが、田里弥については王翦は「お前も来い」(お前も私と一緒に退却しろ)と言ったほど。
- 倉央(そうおう)
王翦軍第四将→王翦軍第三将。
堅物揃いの傘下の中では珍しく軽口を好む猛将……しまいには糸凌にぞっこんであり、王翦軍の中にあってその心は糸凌だけだったことが明かされている。
王翦傘下の将軍らと同じく優れた知略を持っているが、自ら先陣を切れる高い武力をもっており、本人曰く「自分は戦い専門」。
番吾戦では唯一生き残ったものの、戦場で二人で死ぬつもりが糸凌独りで逝かせてしまったことを悔やんだため、玉鳳軍と秦国へ帰還する前に番吾へ戻り、糸凌の亡骸に会い触れるべく、青歌軍に投降し、カン・サロに話をした。
しかしカン・サロは、糸凌と相打ちとなったジ・アガならどうするかを考えた末、糸凌の命を助けることにしたため、2人は生きて再会し、糸凌とともに閼与城に帰還した。
- 虞寧(ぐねい)
傘下将軍兼亜光軍の副官。王賁の元教育係。
45年間戦場に出続けた歴戦の老将だが、朱海平原の戦い9日目に堯雲が想像以上に強かったため戦死。
- 糸凌(しりょう)
王翦傘下将校。倉央軍副官。得物は双剣。
倉央とは恋仲で、倉央と同じく高い武力を持ち、自ら先陣を切れる力の持ち主。
回想によると、糸凌は元は傭兵団の団長を務めていたが、何らかの理由で左目に傷を負っていた(作中では常に左目が髪で隠れた描写で描かれている)ため、一般的な女性のように戦場に出ずに嫁ぐことができなかった。
だが、ある戦場で倉央が一目惚れして以降ひたすらアプローチを続けられたことで遂に根折れし、左目の傷について話すも、それを含めても倉央は好意を曲げず、添い遂げることとなった過去を持つ。
朱海平原の戦い15日目に、王翦からの指示で共伯軍へ、倉央と共に先陣を切り猛威を振るう。
大乱戦の最中李牧軍本陣へあと一歩まで迫るも龐煖に阻止され、立て直しのため一時退却。
再度、李牧軍本陣を狙い、立ちはだかった趙将軍・共伯を一騎打ちの末に討ち取り、右軍から駆け付けた馬呈と対峙するが決着は着かなかった。
李牧軍の撤退後は精鋭軍に選ばれ、李牧軍の追撃へと向かった。
番吾の戦いではカン・サロを集中攻撃しようとした際にジ・アガが糸凌の不意打ちの盾となったことで、カン・サロを討ち漏らした。
それでもジ・アガを結果的に討ったが、ジ・アガの攻撃で左腕を負傷、倉央の名前を戦場でずっと呼びつつ戦死したかに思われたが、秦軍が撤退した後でカン・サロに救われたらしく、上記の通り青歌軍に投降した倉央と再会を果たした。
上述の左腕は壊死する故切り落とされたが、それ以上に殺されるようなことは無く、倉央とともに閼与城に帰還した。
- 段茶(だんさ)
傘下将軍。亜光軍所属。
第612話によると、子供は娘だけが5人いる。
朱海平原の戦い9日目に意識不明の重体となった亜光に代わり、大将代理を担当。
亜光と王賁不在の戦場で、信を新たに大将に据える。
終盤、馬南慈軍を足止めしていたが、馬南慈軍の機動力を読み違えたことで森からの王翦軍本陣への突破を許してしまう。
傘下将軍ほか(韓攻略以降)
- 倉央
王翦軍第三将。
番吾以前については上述。
糸凌とともに閼与城に戻った後、無断で軍を抜けたことで王翦に処罰を求めたが不問となり、王翦軍復活の中心人物となる。
- 糸凌
王翦傘下将校。倉央軍副官。
番吾以前については上述。
倉央とともに閼与城に戻った後、無断で軍を抜けたことで王翦に処罰を求めたが不問となり、王翦軍復活の中心人物となる。
- 辛勝(しんしょう)
五千人将。
王翦が閼与城に戻った時点の王翦の側近。
上記の通り王翦軍は倉央と糸凌以外の将軍を全て失ったため、側近に据えるにも五千人将が精一杯だったことが窺える。
また、彼の名前も番吾以前の王翦の戦い方からすれば皮肉に思える一方、苦しい今から再興する王翦のスタンスを表しているのかもしれない。
なぜこんな名前の人物が出ているのかと言うと、史実に名前が出ているからである。