概要
1961年1月20日(大寒)、兵庫県生まれ。本名は上島龍平(読みは同じ)。
ダチョウ倶楽部の中で、最も体を張っているいじられキャラで有名。
怒って帽子を叩きつけるリアクションを持ちネタの一つとするため、リアクション芸人と称される。上島と同じくリアクション芸と得意とする出川哲朗とは若い頃からの盟友かつ戦友であり、同業のライバルでもある。
彼の才能を見出した人物がビートたけしであり、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』『スーパージョッキー』(熱湯風呂の元祖)では、彼の面白さが遺憾なく発揮された。彼の妻、広川ひかるが優勝したことまである。そのため、たけし軍団からも彼は「戦友」と呼ばれており、上島がたけしを「殿」と呼ぶのも何の違和感もない。
また、志村けんからもとても可愛がられている。志村と上島が酒を呑むのは恒例らしい。ちなみに直接の弟子ではないものの、志村を「師匠」と呼んでいる。
「代表作これといってなし!!」が彼の持ちネタの一つだが、ピークで浮き沈みの激しい芸能界にあって、ブレイクから生涯を終えるまで知名度が薄れることなく出演し続けたタレントは、非常にまれな例である。
テレビで受ける印象とは裏腹に、私生活では信じられないほどの良識人だった。
渡辺正行ら同様、彼も下積み時代の苦労から、後輩を本当に可愛がっており、その中でも彼と会食したりするタレントの集まりである竜兵会のメンバーからはダチョウ倶楽部で一番まともな人と言わしめた。その恩恵を受けた最大の人物が有吉弘行で、最近はそのギャップがネタにされることも多くなり、また上島の意外なリーダーシップも本やDVDになっている。
近年になって目覚めた趣味は意外にもエロ漫画の購読。お気に入りのエロ漫画家は風船クラブ。抜けるだけでなくストーリーでも読ませるエロ漫画が好みとの話がある。しかし、年齢が年齢だけに固くなりにくいときがあるため、バイアグラを飲んでからエロ漫画を読み耽ることがあるらしい(情報源は『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』内のトーク及び『ゴッドタン』マジ歌選手権で劇団ひとりが歌った『This is Ryu』の歌詞より)。
主なネタ
散々な目に遭うリアクション芸人の代表格というだけあって、芸能生活40年の間に彼とダチョウ倶楽部が編み出したネタは日本社会において既にお約束として浸透している。
リアクションというハプニングを楽しむジャンルにおいて、後の結末がわかっているのに笑える定番ネタを築き上げたのは彼の功績と言え、これらのネタが残り続ける限り、上島竜兵はその名を日本お笑い史に刻み続けるだろう。
テレビの枠を越えて漫画、アニメでもしばしばパロディや似た言い回しが自然に使われており、影響力の高さを実感できる。
以下例
・「いいか、お前ら押すなよ!押すな!絶対に押すなよ!」
→最後の「絶対に押すなよ」の場所で自分の背中を押せという意味である。
つまりその前の「押すなよ」ではまだ準備中なので押してはならない。実はカメラから遠い方の手で「絶対に~」までの回数をカウントダウンしている。
押されて熱湯風呂などに落っこちた後「殺す気か!」と必死の形相で叫ぶまでが芸である(本人は相当の金槌で全く泳げない)。
因みに押さない場合もあり、その時には「押せよ!」と怒るのがお約束である。
・溺れた後に人工呼吸(心臓マッサージ)で口から水を吹く
古来から漫画で行われてきたネタだが、現実で実践していたのは上島が代表例。
なお、明らかに水を飲んでなさそうなシチュエーションでも水を準備している。
・「聞いてないよォ」
93年の流行語大賞で銀賞にも輝いた名台詞。
半ば何をするか絶対わかっていそうな場面で使われたりしていたが、初出は『お笑いウルトラクイズ』の「リュック爆破クイズ」でリュックの火薬量が多すぎて肥後の頭がガチ燃えするという本当に聞いてないハプニングから生まれた産物だった。
・熱々おでん(食べ物)
身体を仲間や仕掛け役に羽交い締めされて熱々のおでんを食わされる(またはぶつけられる)というもの。元々は事務所の先輩である片岡鶴太郎氏が行っていたが、彼が本格的に画家や俳優として活動し始めた頃からダチョウ倶楽部に受け継がれ、現在まで彼らの定番ネタとして世間に浸透している。
トニーたけざきのガンダム漫画でもパロディされ、そのシチュエーションから南極条約違反という通称でも有名。
しかし、最近ではコロナの影響及び、食品のコンプライアンス問題もあってか、テレビではあまり披露されなくなった。
多くの人間を巻き込んだ大掛かりなネタ。ネタだけの範囲にとどまらず、譲るという意味合いから、東日本大震災直後の電力・エネルギー供給問題では一連の計画がウエシマ作戦と呼ばれ、混乱を抑えることに貢献した(?)。
・キス芸
上島が相手から何かしら指摘や注意を受けると逆ギレし始めて詰め寄り、相手も反論し始め、二人は口げんかしながらどんどん詰め寄っていくと、最後はキスをして仲直りするというのが一連の流れ。
コロナの影響下の時はアクリルボード越しでやっていた。
・くるりんぱ
キレ芸にありがちな被っている帽子を地面に叩きつける…と見せかけて、回転させながら被り直すという仕切り直し系の定番ギャグ。
この他に顔芸やモノマネにも長けており、実は芸のレパートリーが豊富にあった。
そして今日も竜ちゃんは、カメラの前でみんなからバカにされ、
それが終わったあとは大切にされる。
こうして皆に愛され、身体を張ることも厭わない明るいリアクション芸人であったが……
訃報
2022年5月11日の未明、自宅で倒れていた所を家族に発見され、その後病院に運ばれたが、すでに亡くなっていた事が確認された。
警察の調べでは縊死した可能性が高いとの事。
享年61歳。
のちに妻の広川が著書や取材で明かしたところによると、この日精神不安定な様子が見られたため「今夜は側にいよう」と思いつつ、消灯などの準備のため彼女が目を離していたわずか10分の間に命を絶っていたという。
朝7~8時台にこの報道がされた際は、ネット上でも衝撃的なニュースとして拡散され、「去年還暦祝ってもらったばかりじゃないか…」「この間の番組ではいつものようにやってたのに…」「あの竜ちゃんがどうして…」「師匠が天国で『バカヤロー!!』って泣いてるぞ…」と悲しみの声が相次ぎ、スッキリ!では司会の加藤浩次が言葉に詰まり、めざまし8では当日パーソナリティだった後輩のEXITが泣きながらコメントを返していた。
先輩・後輩問わず芸能界からは多数の悲しみのコメントが寄せられ、いかに多くの人々から愛されていたかがうかがえる。
また、自宅や事務所前にメディアが殺到し、死因や場所といったプライバシーも無視して報道しようとする様子を生放送中パネラーとしてスタジオでその様子を見ていた尾木直樹は、若者への影響や配慮に欠けた表現を批判し、厚生労働省からも今回の報道姿勢について厳しく非難する声明を発表された。
お笑い界の第一線で走り続け、近年では役者としても高い評価を得ており、還暦を迎えた時期からは元々夢であった俳優業にも本腰を入れ始めるなど、これからの活躍にますます期待がかかる中、あまりにも唐突かつショッキングな内容のため、中には悪質なデマやドッキリ、フェイクニュースと信じた者までいた程である。
お茶の間の皆でさえもここまでショックを受けているのだから、妻の広川は勿論、相方の肥後リーダーと寺門ジモンや元メンバーの電撃ネットワーク・南部虎弾、同じくリアクション芸人の双璧たる出川哲朗、ブレイク前からドン底期、そして再ブレイク後も上島に面倒を見てもらっていた有吉弘行を始めとする竜兵会のメンバー、ドラマで共演し、プライベートでも親交があった嵐の大野智、TOKIOの松岡昌宏、八嶋智人、そして自身の番組でダチョウ倶楽部を見出したビートたけしなど、彼を慕っていた後輩や友人達の悲しみと悔しさ、やりきれなさは計り知れない事だろう(特に、松岡は最後の出演作となった『家政夫のミタゾノシーズン5』第5話にて共演していた。また、八嶋もTwitterにて嘆きの言葉をツイートしている)。
約1週間前の5月3日に俳優の渡辺裕之が同じく自宅で縊死し急逝したことから、著名人の訃報が立て続いたことも世間を驚かせた。
この訃報により、ダチョウ倶楽部の解散または活動終了、もしくは肥後および寺門の芸能界引退をも心配する声も上がっていたが、上島の密葬が行われた2022年5月14日、肥後から「ダチョウ倶楽部は解散しません!!」との公式声明が発表された。また、準レギュラーとして出演していたフジテレビ系木曜ドラマ『やんごとなき一族』にも肥後と寺門の2人で「ダチョウ倶楽部」として引き続き最後まで出演することが発表された。
上島の葬儀には、妻のひかるや相方の肥後・寺門、有吉を始めとする竜兵会のメンバーはもちろん、出川哲朗、大野智、ウッチャンナンチャン、山田邦子、中山秀征、加藤茶、研ナオコ、松村邦洋、江頭2:50が参列に駆けつけた。
数多くの後輩から慕われ、周りからのイジリや体を張った芸を最後まで極め続けた伝説の男は、自身の役目を終えたかのように天国にいる師匠の志村の元へ旅立っていった。
その訃報から7カ月、2022年を締めくくる『NHK紅白歌合戦』では純烈※と共にダチョウ倶楽部の肥後・寺門、そして上島を恩人として慕う有吉弘行が歌手枠で参戦し、有吉は滅多に地上波で歌うことのなかった自身のヒット曲『白い雲のように』を自ら歌い、最後はダチョウ倶楽部のツカミギャグ「ヤー!」で締めくった。
大晦日に満員のNHKホールは拍手喝采で溢れ、有吉は「上島も喜んでおります」と故人に代わってお礼を述べた。
記録では残せない数々の記憶を人々に刻み付けたお笑い芸人、上島竜兵。
その生きた証は白い雲のように、必ず人々の日常の中で残り続けるだろう。
※これは上島の死後、『白い雲のように』を純烈とダチョウ倶楽部二人でカバーしたことによる組み合わせ。
死の背景
遺体発見時に遺書が見つかっていたものの、明確な死因は不明だが、TVでのキャラとは異なり性格はかなり繊細なところがあったといい、後輩達にいい顔をしようとしてか飲み会に多額の金を費やしており(毎月におよそ100万円ほど)遺産もほとんどなかったという。
また、この繊細さが広川との間に子供を作らなかった要因ではないかとも言われている(親になるとキャパオーバーしてしまうため)。
広川自身も上島の死直後にガン罹患が発覚して闘病しており彼の死後の諸手続きはかなり苦労したようである。
また、広川曰く彼を一番精神的に追い詰めたのは自身の芸を世間が受け入れなくなっていった事も要因の一つと言われている。
かつては上記の熱湯風呂や熱々おでん、キス芸等の体当たりネタが世間から大ウケし、一躍人気になった上島達だったが、時代が進むにつれて世間からのお笑いに関するコンプライアンスに対する監視が厳しくなり、次第に彼らの芸が度々問題沙汰に取り上げられていくようになってしまう。特に全テレビ放送審議団体のBPOからは彼らの芸に対して「怪我やいじめを助長し、衛生的にも問題がある」と猛批判し、これを間に受けた教育団体が事務所や各テレビ局に対して「身近にあるもので子供が真似をしたら困る」という苦情が相次いだ事から、結果的にダチョウ倶楽部や上島の代表芸は世間に頻繁には披露しないよう自粛を要請されてしまう。
自分達のブレイクにも繋がった代表ネタを簡単に披露できなくなった上島は相当悔やんではいたが、それでも当初は恩師でもある志村けんや後輩の有吉弘行の冠番組に度々出演していた為、自分のテレビでの存在意義を示すことは出来ていた。
その後は俳優業にも進出し、お笑いの傍らに役者としても活躍していたが、この頃から世間と比べ自身のお笑いに対するギャップに苛まれるようになって行き、精神的に不安定になり始めるようにもなっていったという。
そんな矢先に彼に更なる不幸が叩きつけられた。
それは恩師でもある志村の死だった。
かつて志村は上記の悩みを彼から打ち明けられた際に「周りからどう言われようとそれが一番面白いと言われたのは事実なんだから絶対に続けろ」と助言をされたことに恩義を感じており、以来上島は志村と師弟関係を持つほどまでに親しくなって行った。
その志村の訃報を知らされた際には心身喪失やノイローゼに追い込まれるまで落ち込み、直接遺体と対面しようにも当時のコロナ禍の感染対策から対面は許されず、そのまま荼毘に付されたことから死に目にも会えない悔しさに相当な憤りを抱いていた。
更に、コロナウイルス感染拡大の影響からか更に感染対策が徹底された事により、ソーシャルディスタンスの観点から上記のキス芸を始め、熱湯風呂や熱々おでん等の冠ネタは更に制限されてしまい、結果的に彼らの芸を世間で披露する機会は完全に激減してしまう。
それに加え、後輩の有吉や土田晃之らがコロナ禍にもかかわらず自身よりも更に大活躍していることに対する嫉妬や、このご時世で後輩らと度々飲みに行くことも出来なくなった事による寂しさも加わった事から次第に仕事に対して気力も失せ始め、テレビ収録の際にも今までのような前向きで積極的な姿勢ではなく、周りともあまり口もせず明らかに消極的な姿勢を見せ始めてしまう。
次第に上島は私生活にも支障をきたし始め、コロナ禍で仕事があまりない日は誰とも電話したり話したりもせず、一日中部屋に閉じこもる日々が続き、普段テレビを見る際もバラエティ番組を見てもあまり笑わず、日常生活を含め終始無表情な様子が続いていたという。唯一電話をしたのは高校時代の担任や故郷の両親やの幼馴染のみでその会話内容から彼の今後の行く末を予想出来ていた。
その異変に一番早くに気がついていたのが妻の広川であり、二人で外に出掛けたりカウンセリングを受けるよう勧めるが上島本人は「そこまで追い詰められてはいないから大丈夫」と豪語しあまり気に留めることはなかった。
しかし、結局彼はそのまま気持ちを立て直すことが出来ず、最後に出演した『ドリフのコントに挑戦』の放送三日後に静かにこの世を去った…
関連人物
肥後克広
相方1。
寺門ジモン
相方2。肥後よりちょっと付き合いが長い。
広川ひかる
妻。
ビートたけし
志村けん
師匠のような存在。
出川哲朗
盟友兼戦友兼ライバル。
有吉弘行
事務所の後輩。
加地倫三
テレ朝のスタッフ。上島さんのおかげで自信がついた。
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