概要
本名:ジョン・サイモン・ビヴァリー(1957年5月10日生まれ、1979年2月2日没。)
芸名の「シド・ヴィシャス」は、スティーヴ・ジョーンズが飼っていたハムスターの名前。(ジョニー・ロットンは「シド・バレットに由来する」としている)
イギリスのパンクロック・バンド「セックスピストルズ」でベースを担当し、カリスマ性を発揮。ヘロインのオーバードーズにより若くして亡くなり、その無軌道な生き様はパンクのアイコンと化した。
略歴
「セックス・ピストルズ」加入まで
1957年5月10日、ロンドン(イングランド)に誕生。出生名はジョン・サイモン・リッチー。父のジョンはバッキンガム宮殿の衛兵、母のアンはRAFの軍人。間もなく両親は離婚する。
1965年、母が再婚し、ビヴァリー姓となった。
1972年、ファッション関係の専門学校でジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)と出会い意気投合。普段は礼儀正しい青年であり、身長が高くスタイルが良いためヴィヴィアン・ウエストウッドがモデルとして起用していた。
1975年、「セックス・ピストルズ」が結成されるとピストルズの親衛隊(ブロムリー軍団)を結成し、ライブに頻繁に駆けつけては他の観客と乱闘するなどフーリガン化した。
ブロムリー軍団のメンバーで結成した「スージー&ザ・バンシーズ」でドラムス担当だった。その後、キース・レヴィンらと「フラワーズ・オブ・ロマンス」を結成してボーカル担当となる。
このころ、ニューヨーク(アメリカ)からロンドンに渡ってきたナンシー・スパンゲンと恋愛関係となり、二人揃って重度のヘロイン中毒になっている。ジョニーはナンシーを嫌い縁を切るようシドに忠告したが、シドは結局ナンシーの言いなりになっていた。
「セックス・ピストルズ」時代
1977年、ベーシストのグレン・マトロックがジョニーとの確執により解雇されると、マネージャーのマルコム・マクラーレンの勧めで後任として加入する。
それまでベースは触ったことすらなかったが、残っているライブ映像ではきちんと弾いており、「シドはベースを弾けず、もっぱら客を殴るのに使っていた」「練習もせずナンシーと一緒にヘロインばかり打って上達しなかった」というのはマルコムのプロパガンダではないかと言われる。
「セックス・ピストルズ」解散後
1978年、ジョニーが脱退しバンドは実質的な終焉を迎えたが、シドはマルコムに無理やりフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」を歌わされ、ヒットしたため、これがシド時代(?)の代表曲となってしまう。
その後ジョニーと和解し新たなバンド結成を計画するが、ナンシーがシドをフロント・マンにする事で譲らず、ジョニーに「あなたはドラムでもやってなさい」と横やりを入れたことで破談となる。
ニューヨークに渡り、マクシズ・カンザス・シティに出演するが体調不良で立っているのがやっとで、悲惨な結果に終わる。
10月13日、チェルシーホテル(ニューヨーク)の浴室で腹を刺されたナンシーの死体が発見され、シドが容疑者として逮捕される。レコード会社が保釈金を支払い保釈された。
1979年2月2日、ヘロインのオーバードーズにより死去。ポケットから「俺たちは一緒に死ぬ約束をしたから、その約束を果たさなきゃいけない。今ならまだ間に合うかもしれない。革ジャンにレザーパンツ、バイク用ブーツを履かせた格好で、ナンシーの隣に埋めてくれ。さよなら」という遺書が見つかったことから、自殺であったとみられる。
死後
シドの母のアンは息子を遺言通りにナンシーと同じ墓に入れたいと訴えるが、ナンシーの遺族に拒否され、彼の遺灰をナンシーの墓に撒くことで遺言を果たした。
アンは息子に対するジョニーの罵倒を恨み、1997年に自殺している。
関連タグ
南京錠:シドは南京錠を使ったネックレスを愛用しており、現在も「シド・チェーン」で通じるほど定番のデザインとなっている。映画『シド・アンド・ナンシー』では、ナンシーから贈られたものと描写されているが、実際にはクリッシー・ハインドからのプレゼントだった。