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マーティン

まーてぃん

英語圏の姓。またはそれに由来する会社、キャラクターなど。
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曖昧さ回避


楽器メーカーのマーティン

1833年、ニューヨークアメリカ合衆国)で創業した楽器メーカー。
ドイツから移住した楽器職人クリスチャン・フリードリヒ・マーティン(クリスチャン・フレデリック・マーティン)により創業され、マーティン一族による経営が現在(2021年)まで続いている。
アコースティック・ギターの製造で知られ、数多くの有名ミュージシャンにより愛用されてきた。

来歴

1796年1月31日、クリスチャン・フリードリヒ・マーティンがマルクノイキルヒェンザクセン選帝侯領)に誕生。実家はバイオリンのケースや出荷箱の製造を行っていた。
1811年、ウィーンのギター職人、ヨハン・シュタウファーの工房の徒弟となる。故郷に帰り楽器工房を開くが、出荷箱職人ギルド・メンバーが楽器製造に進出した事に反発するバイオリン職人ギルドと泥沼の争いとなる。

1833年、家族を連れてアメリカ合衆国へ移民。ニューヨークで楽器店を経営し、ギター工房を開く。当時のアメリカは楽器市場が未成熟で苦難の時代が続いた。
1838年、ナザレスペンシルベニア州)に転居し、本格的にギター製作を開始。
1861年、アメリカ南北戦争が勃発(~1865年)。その後の国内の混乱はマーティン社の業績に悪影響を与えた。

1873年、創業者クリスチャンが死去。息子のクリスチャン・フレデリックJr.が社長となる。クリスチャン・フレデリックJr.はナザレスの市長も歴任した。

1888年、クリスチャン・フレデリックJr.が死去。息子のフランク・ヘンリーが社長となる。
1890年代、大規模なイタリアからの移民の流入があり、フランク・ヘンリーは彼ら向けにマンドリンを製造。
1916年、オリヴァー・ディットソン商会へのOEM製品としてボディ・サイズの大きい「ドレッドノート」を開発。
1920年代、ハワイアン・ミュージックの流行に乗りウクレレを製造。マーティン社は急激に業績を伸ばした。
1929年、ニューヨーク市場の株価暴落をきっかけに世界恐慌が起こり、マーティン社の業績も悪化した。経営多角化に取り組み、数多くの新製品を発表したが、大部分は人気を得られず消えて行った。
1933年、ジーン・オートリーのオーダーにより「D-45」を開発。
1934年、14フレット・ジョイントのドレッドノート・モデルを発表。その後のアコースティック・ギターの標準規格となった。

1948年4月9日、フランク・ヘンリーが死去。息子のクリスチャン・フレデリックⅢ世が社長となる。
1964年、フォーク・ブームなどでギターの需要が製造能力の限界を上回り、マーティン社はバック・オーダーを3年分以上抱えたため、新工場を建設することとなる。

1971年、クリスチャン・フレデリックⅢ世は引退し、息子のフランク・ハーバートが社長となる。べガ社、ファイブス社、ダルコ・ストリング社を傘下に収めるなどM&Aを勧めたが、人気がエレクトリック・ギターに移ってアコースティック・ギターの生産量は急速に減少し、リストラが進められた。

1986年、フランク・ハーバートは引退し、息子のクリス(クリスチャン・フレデリックⅣ世)が社長となる。
1989年、「MTVアンプラグド」が放映開始。エリック・クラプトンの「アンプラグド~アコースティック・クラプトン」(1992年)のヒットにより、アコースティック・ギターの需要が増加。マーティン社の業績は急速に回復した。ナヴァホア工場(メキシコ)での製造を始める。
1994年、マーティン社初のシグネイチャー・モデル「D-45 ジーン・オートリー」を発売。
1995年、エリック・クラプトンのシグネイチャー・モデル「OOO-28EC」を発売。
1999年、需要増により、ナザレスの工場をおよそ2倍に拡張。

マーティン・ギターの使用者

ハンク・ウイリアムス エルヴィス・プレスリー ポール・サイモン エリック・クラプトン ボブ・ディラン ロビー・ロバートソン ジミー・ペイジ デヴィッド・クロスビー スティーヴン・スティルス ニール・ヤング ジョン・メイヤー カート・コバーン

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