概要
源姓井上氏は河内源氏の祖である源頼信の三男・頼季が信濃高井郡井上(長野県須坂市)を領したのを始まりとしている(信濃井上氏)。
治承・寿永の乱では当時の当主・光盛が木曽義仲、次いで源頼朝方に加わったが、1184(元暦元)年に誅殺された。その後は武士団形成が遅れるなど振るわず、戦国時代には上杉氏に属し陸奥会津→出羽米沢転封に随行し、米沢藩士として明治維新を迎えた。
安芸井上氏
頼季の子・頼資を祖とする家。南北朝時代の当主・光純が備後や安芸に領地を与えられ下向したことが始まり。
光純の曾孫・光兼から毛利氏に仕え、その子・元兼の時には主家を脅かす勢いとなったが、1550(天文19)年に毛利元就により元兼ら主家に反抗的な人物30余名が粛清された。
他の一族は以降も中国地方の大大名から長州藩主となった毛利氏に仕え、特に光兼の弟・光貞の子孫・馨は明治維新の功績により侯爵に叙された。
三河井上氏
信濃井上氏の末裔と称しているが定かではない。実在が確実なのは徳川家康の家臣・大須賀康高に仕えた井上清宗からとなる。
その孫である正就は家康の三男・秀忠に仕え、1622(元和8)年に遠江横須賀(静岡県掛川市)52,500石を与えられた。以降転封を繰り返し遠江浜松(静岡県浜松市)6万石で明治維新を迎え、徳川家達の静岡移封のため上総鶴舞(千葉県市原市)に転封し廃藩置県を迎えた。
分家に正就の弟・政重が祖の下総高岡(千葉県成田市)1万石と正就の曾孫・正長が祖の常陸下妻(茨城県下妻市)1万石があり華族令施行後に三家全て子爵に叙爵された。