砲戦車とは
戦車部隊の主力戦車(ここでは中戦車)での素早い対処が困難な傷害(戦車・対戦車砲)を取り除いたり、発煙弾を使用して煙幕を張り敵の行動を妨害したり、時には敵の攻撃を引きつけ味方戦車部隊の盾となることで、その進退を円滑にする補助的な車両である。(当然、配備数は少数となる。)
そのために、砲戦車には共通事項として主力戦車と比して強力な大口径砲と主力戦車と同等かそれを上回る装甲、主力戦車に随伴できる速度、さらに整備性を考慮し主力戦車をベースにすることが要求された。
ただし、主砲の搭載方式や重要視すべき排除対象にかんしては時代によって異なる。
例えば、砲戦車の概念が固まった最初の頃である1941年の後半~1943年の前半では、砲戦車が優先して排除する相手は対戦車砲陣地であり、主砲の搭載方式は可能な限り旋回砲塔式かそれに近い方式であることが求められた。その搭載砲も対陣地攻撃を重視した短砲身75~105mm級火砲であり、対戦車戦闘には不向きであった(対戦車は駆逐戦車に優先して任せる予定だった。)
しかし1943年の後半からは戦車が大きく進化したため対戦車戦闘が重視され、世界の趨勢に一刻も早く追いつくため、旋回砲塔式にこだわらなくなり、駆逐戦車的な面が強くなった。
概要
本記事で扱う新砲戦車(甲)は後者であり、主力戦車に位置付けられた試製五式中戦車(以下チリ車)を支援・補助するべく開発計画された。仮想敵国であるソビエト連邦(以下ソ連軍)が使用する新型重戦車に対抗するため、主砲に長砲身105mm砲を固定砲塔式に搭載し、さらに厚さ125mm程度の強固な装甲を施す予定だった。
なお、開発当時(1943年)の認識として日本陸軍の技術では、長砲身105mm級火砲を旋回砲塔式に搭載する事は困難であり、出来たとしてもそのような戦車の量産、運用は不可能であった。
(日本以外の大戦参加国ですら、砲口径が100mmを越える長砲身戦車砲を旋回式に搭載するのは簡単ではなく、量産化出来たのはKV-2やIS-2~3ぐらいである。しかも、それらは何かしらの問題点を抱えていた。)
旋回砲塔式に搭載できる砲の限界は長砲身75mmクラスまでとし、施せる装甲も機動性や重量、新砲戦車(甲)と車体の共用を考慮し75mmまでとされている。これがチリ車の要求性能の由来でもあり、赤軍の使用する新型重戦車に対抗するための能力は(チリ車では)不十分であると初めから懸念されていた。しかし、主力であるため旋回砲塔式は必須であり、これを諦めるという選択肢も無かった。その解決策こそが新砲戦車(甲)の開発だった。
その大まかな役割は、その大火力と重装甲を持って、対重戦車戦の中核となることでチリ車を援護し、これを敵に接近させることである。
開発時の名称はホリまたはホリ車である(以下ホリ車と表記)。
武装
武装は試製十糎戦車砲(長)が固定砲塔正面に1門、副武装として車体正面に機関銃1挺と双連式の一式37粍戦車砲1門、固定砲塔天板に対空兵器として機関砲が搭載される予定だった。
主砲
この砲は同時期に計画されていた新型の105mm対戦車砲と同じ性能とし、当初は1000mで200mmの装甲板を貫通することが求められた。しかし、そのような火砲を1~2年以内で開発完了することは現時点では困難とされたため、妥協して要求性能は1000mで150mm貫通することが当面の目標となり、200mm貫通はその後に目指すということになった。
日本陸軍(戦車隊)は大口径化による装塡速度の低下を心ヒドく嫌っており、装塡速度を補う目的で半自動装塡装置を追加しただけでなく副砲に37mm戦車砲を車体に搭載した。
砲は装塡装置の不具合など、幾多の困難を乗り越え1945年半ばに完成したが、量産化は絶望的だった。その少し後に日本は無条件降伏を受け入れ終戦を迎える事になる。
装甲・機動性
最大装甲厚である125mmという数値は、赤軍が使用する重対戦車砲を1000m内外で防げるように想定されたモノである。側面は25mmであった。
移動性能は、チリ車に追尾出来るようにチリ車とだいたい同程度とされ、予定重量は約35~40tとされた。
ホリ車の形状はいくつか案が存在しヤークトティーガーやフェルディナンド駆逐戦車に類似した案もあったが実際に採用されたのはどの案であるかは不明。
余談
満州事変以降、日本陸軍の仮想敵国は満州国と国境を接するソ連であり、新砲戦車(甲)も当初(本土決戦用ではなく)ソ連軍相手に使われる想定だった。
(新砲戦車(甲)の計画時はアメリカと戦争の真っ最中だが、アメリカ軍戦車などの情報は1943年までは意外にも積極的に集めていなかったりする。本土決戦の作戦をまともに考えだしたのは新砲戦車(甲)の計画から約半年後の1944年の初め辺りであり、当初アメリカとの戦争がこれほどまで長引くとは予期していなかった。)
何かと問題になる輸送手段に関しては全くないワケでも無く、大連や朝鮮等の近代的な湾港に設置してある起重機を使用すれば一応陸揚げが可能であり、そこから満州鉄道で輸送することが出来た。
輸送手段に関して輸送船の搭載する積み卸し用クレーン(デリック)の限界が挙げられるが、根本的な問題ではない。(参考として、太平洋戦争中に開発・量産された戦標船2D型は、戦車等の重量物輸送を考慮し30t用クレーンを搭載している。)
インフラの劣悪さに関しても元々は、架橋機材が必要な川が多い中国戦線や東南アジア等のような島嶼が対象であり、主要作戦地域とされていた満州北部を指しているわけではない。
ただ、満州北部ですら大型戦車の運用には少々難があり、終戦間際に侵攻した赤軍兵士からは軽量級のBT戦車の方が扱いやすかったという意見もある。とはいえ、重量級戦車の運用のハードルが、中国戦線や南方戦線と比べて低いのは代わらず(実際の侵攻した赤軍も多数の重量級戦車を投入運用している)、身の丈に合わない部分も否めないが、今までの軽量級戦車をぶつけるという訳にもいかなかないことはわかっていた。
本車両の運用も考慮した超重門橋なる渡河機材が開発されている。これは複数のボートの上に板を渡して戦車などを水上輸送する渡し舟であり、大陸にある(向こう岸が見えないほどの)大河での運用を目的とされており、積載可能な重量は40tまでであり、新砲戦車(甲)も積載可能である。日本列島にはこのような河川は無く、大陸で運用するつもりであったのが分かる。