いいかげんながいよう
日本陸軍が昭和18年6月から、新中戦車甲(後の四式中戦車)と並行して開発を開始した次期新中戦車であり、開発時は試製中戦車乙またはチリ車と呼ばれていた。
てきとうなれきし
昭和16年頃に、敵戦車を排除するために駆逐戦車(甲)/(乙)と名付けられた車両が構想された。
(甲)は試製一〇〇式砲戦車(二式砲戦車の前身)の主砲である短砲身75㎜砲を高初速57㎜砲に換装したモノであり、(乙)は一式砲戦車こと一式七糎半自走砲を対戦車用に改修したうえで(甲)と同じく砲身を高初速57㎜砲に換装した兵器であるが後者の方が威力が高い。しかし、この二種の車両は構想のみで昭和17年には立ち消えてしまう。
昭和17年になると立ち消えた駆逐戦車案の代わりに、新中戦車甲(チト車)と新中戦車乙(チリ車)
の開発が計画された。甲は当時開発に手間取っていた一式中戦車(以下チヘ車)の後継として開発が開始されていた車両であり、主砲はチヘ車と同じく47mm砲を搭載、装甲は50㎜、全備重量20t級戦車として計画された。(詳しい甲の解説は四式中戦車の記事に譲りここでは割愛する。)
乙は16年度の計画内にあった駆逐戦車(乙)が変化したモノと言われており、ドイツの突撃砲に強い影響を受けた…のか知らないが、旋回砲塔を採用せず低姿勢の固定砲塔の戦車であり、主砲は甲より威力の高い高初速57㎜砲搭載する予定だった。
甲にしろ乙にしても当時、量産または開発がすすめられていた敵国戦車と比べると口径の小ささが目立つ。これはおそらく47mm砲は既に戦力化し、また長砲身57㎜砲も原型らしきものが開発(チハ車に搭載予定だったと思われるが詳細不明)されており、すこしでも開発完了を目指そうとする処置でもあったのかもしれない。(また当時の日本戦車部隊は素早く砲弾を装填できる、57㎜級以下の小口径の砲を好んでおり大口径化すると装填速度が悪化し即急の対応が難しくなるという意見も一部からあったといわれる。)
昭和18年6月になると、昭和17年の後半に入手した独ソ戦の情報をもとに甲乙の仕様が変わり、甲は47mm砲から57㎜砲に、装甲も50㎜から75㎜へそれに伴い全備重量は25t級にまでになった。
乙は固定戦闘室から旋回砲塔式に高初速75㎜砲を搭載することになり、装甲も75㎜に強化され全備計画重量も35tに増加した。(乙が本命であったが、つなぎとして甲も並行開発されていた。)
こうぞう
主砲は、昭和18年当時の技術で旋回式に搭載できる砲としては最大限度である高初速75㎜砲を選び、日中戦争の初期に国民党軍から鹵獲したボフォース社製75㎜高射砲をベースとした。
また独ソ戦の戦訓とこれまでの日本戦車部隊の思想から、速射性を高めるため半自動式の装填機が取り付けられることになったが、この装置は作動不良が頻発し砲の開発が遅れた。
(これでも遅いといわれ、さらに副武装として車体正面に機関銃と連装式に37㎜砲を搭載するという入念さであった。)
装填装置に伴い砲と砲塔が大型化し、それを収める砲塔中径も2m程度とオイ車と同等になった。また日本戦車初の砲塔バスケットが採用された。砲塔バスケットとは砲塔内部に籠のようにぶら下がっている部屋であり、従来の日本戦車は砲塔を回す際、回る砲塔に合わせて移動しなければならなかったが、これのおかげで砲塔が回ると床も一緒に動くのでその必要がなくなった。
装甲は機敏性と旋回砲塔、輸送を兼ねて75㎜が限度とされたが、これは独ソ戦で大活躍したソ連軍の使用するKV戦車の主要装甲部が由来でもあった。また、ソ連軍が(チリ車開発時と同時期に)主力として使っていた76mm級対戦車砲を500mで防ぐことを想定した数値であるともされる。
移動性能は、履帯(キャタピラ)幅を広くとることで泥道でも沈みにくくし、エンジンに航空機用のエンジンを改造したモノを使用することで最大時速42㎞/hを発揮できたらしい。足回りはトーションバーの開発が途中で断絶したため九四式軽装甲車から続くシーソー式が採用された。(シーソー式はトーションバーの次に性能が良かったが重量を支えるのは苦手であった。これ以外には板バネ式があったが、重量物に向いていたもののそれ以外の性能が低く信頼性が低かった。)
車体は楽々75㎜砲を載せるためか、先述した装填機搭載による砲塔の大型化を考慮に入れた、はてまた、並行開発が進められていた補助戦車(試製新砲戦車 ホリ)と車体を共用とするためであったのかは知らないが、他国から見ても大型で、全幅・全高はパンターことⅤ号戦車とほぼ同等である。
最終的に戦局の悪化により四式中戦車に75㎜砲が搭載されることになってからは開発・量産計画がなくなり、
車体のみが補助戦車用車体に流用されることとなった。
当初は満州北部で運用する予定だったが、主砲が完成した時点では非現実的であり、本土決戦用として使用されるどころか、四式中戦車もろとも量産計画は中止となり試作のみの研究だけが許可されている有様だった。(ただし四式中戦車は半年後に量産計画が再始動されている)
つよいところ
出力重量比が高め。
これまでの国産戦車と比べるとエンジンのパワーが高く履帯を広くとっているため大重量でも機動性は良好である。
全溶接製
これまでの日本陸軍戦車は、鋲接主体であり、溶接主体であっても一部は鋲接を使って対弾性を高めていたがある程度大きな砲弾を食らうと、貫通し無くても鋲が割れ車内に飛び散り乗員を負傷させる危険性があったが、全溶接製にすることで安全性が高まった。
わるいところ
装甲が薄い
最大装甲75㎜は、75㎜級野戦砲の射撃を中距離で防ぐことを想定しており、開発が始まった1943年ではまあまあの厚さであったが、1944年以降に出現した高射砲由来の76㎜・85㎜(対)戦車砲は想定していないため脆弱である。また副砲部分は弱点部分になりえる。
未曽有の大重量
これまで日本陸軍戦車の重量は、戦力化されているものでは三式中戦車の19t弱が最大であり、
五式中戦車はこの約二倍37~38t(予定)と激増している。
大戦末期の日本陸軍ではあらゆる物資が底を突きつつあり、大重量の戦車の運行に必要な工兵機材や人員が不足しがちであった。三式中戦車の時点で運用重量の限界を超えかけていたことや山がちな日本では限定的な運用になった可能性が高い。だからといって軽量級戦車で戦うわけにもいかないが…。
でかい
防御性能はお世辞にも高いとはいえず、他の戦車と同じく航空機による攻撃にも弱いため、基本的には車体を隠ぺいする必要性があるが、これまでの戦車と比して激太りしたためそれが難しく被弾率も高い。
対戦車能力が力不足気味
搭載砲である、五式七糎半戦車砲Ⅰ型は徹甲弾の関係上、独軍のⅣ号戦車後期型の主砲と同程度しかなく、日独ともに敵主力戦車M4シャーマンの正面装甲(脆弱部除く)を近距離で貫通するのは難しいと考えていた。
(しかし、日本も五式中戦車が旧式化していくことを最初から想定し、試製砲戦車ホリを並行開発している。)
はせいがた
試製新砲戦車(甲)ホリ(ホリ車)
五式中戦車だけでは力不足と考えられていたので、五式中戦車と並行開発が進められていた補助戦車。
長砲身105mm砲を主砲とし、最大装甲厚は125mmとされた。詳しくは新砲戦車(甲)の記事を参照。
チリ Ⅱ型(チリ第二案)
五式中戦車から副武装の37㎜砲を取り除き、装填機を省略した小型砲塔に変更するなどの簡略化を行った案。車体長も縮小され四式中戦車のエンジンに過給機と呼ばれる装置を付けた500馬力ディーゼルエンジンを搭載予定だった。
って言うか五式中戦車の第一案とだいたい同じ。
生産容易化のため、固定砲塔にする案もあったらしい。
こねた
88mm砲論争
海外では中国で鹵獲されたドイツの海軍向け88mm砲を搭載する予定であったとされることも多いが、日本では否定的な意見であり、そのような資料も見つかっていない。
重量について
ゲーム等では、重量41tとされることも多く、これはアメリカが撮影したチリの写真の側面に、「EXP.MODEL HEAVY 45TONS(試作45t重戦車)」と書かれているためだと思われ、アメリカ式トンのため実際は41t程である。この画像はChi-Riと画像検索すれば見つかると思われる。ただ、重量についてはあくまでも予定重量であり、実際、九七式中戦車は試作前の見積もりで、13.5tだったのが、15.3tまで重量が増加している。
日本の戦車は……
日本の戦車が小型軽量なのは、予算が少なく、総合的な技術力が低くとも安価で作りやすく、数も揃えやすいからである。また戦車のような重い兵器を扱っていくには、架設橋などの支援器材の開発もセットで行っていく必要があるが、軽量にすることで安上がりにできる。
仮想敵はソヴィエト連邦
日本陸軍の仮想敵はソヴィエト連邦であり、想定していた戦場も満州の平原であった。
日本陸軍の兵器は、日本のような山岳地帯や東南アジアのような熱帯での運用は考慮しておらず、太平洋戦争が決定した際に各部署の長達は困惑していたらしい。
行き当たりばったりの太平洋戦争
日本軍の上層部は開戦前までは、アメリカを弱勢揃いと見くびっていた上、「島嶼での上陸戦やジャングルなどでの陸上戦をどう切り抜けるか」、「南方の気候に兵器が正常機能するか」といった諸問題に関して深く考えていなかった。
輸送
開戦直前の段階で、複数箇所かつ広範囲での大規模上陸作戦に必要な上陸艇(特大発)やその支援に使う小型艇(装甲艇)の積み下ろしに必要なクレーンの調達に苦労したという逸話が残っている。新たに作られた輸送船ならば問題なかったが、民間から徴用された古い船の場合は、そのままだと、17~18tの特大発どころか、重さ10tにも満たない九五式軽戦車すら降ろせない代物が多かった為、積み下ろしのためのクレーンを増設する必要があったのだ。
なお大陸方面では、整備された港を日本軍が確保していたため、このような問題はなく、数十トンの重量物であろうと、鉄道連絡船か、港に備えられた大型クレーンを使用すれば陸揚げは可能だった。実際に試製四十一糎榴弾砲の砲身を含む主要部品や九〇式二十四糎列車加農の砲身などは、この手法を用いて日本本土から満州へ輸送されている。ソ連戦においても上陸地点は狭い範囲で行われる予定だった。
作戦
日本陸軍はソ連との戦争を前提とした攻勢しか頭になかった時期が長く、島嶼における防衛戦を軽視していた為、
戦争半ば以降におきたアメリカ軍の反攻作戦に対応できず苦戦を強いられた。にもかかわらず方針の変更がなかなか出来なかった。
本土の防空体制も、アメリカ軍による本土空襲が本格化するまでは、ソ連空軍に対応するものであり、その主な内容も本格的な空襲を受ける前に、攻勢に出て敵基地を制圧占領するというものだった。対空砲火も小規模な空襲しか想定しておらず、アメリカの大規模空襲には対応できなかった。
その後の行方について
長年、アメリカに輸送された後どうなったか不明だったが、試作チトや、チヌ、ケトやテケ、チハ等と一緒に解体されたと思われる。