概要
日本テレビ系列の演芸番組『笑点』の大喜利のコーナーにおける重要な役割。
回答者の座布団を、その回答に応じて増減させる。
落語の大喜利で悪い答えのペナルティとして顔に墨を塗ったのが始まり。
『笑点』の前身にあたる『金曜寄席』で先行する演芸番組との差別化を目指し、罰ではなく褒美を与えるという逆転の発想から座布団を与えるという形になった。
座布団は1枚2.3kgに及ぶため座布団運びは体力を要する。
いつもの様に座布団を配る男がおりまして…
三波伸介司会期以降は、大喜利冒頭の挨拶時に司会者がユーモラスな、時に罵倒を含んだ紹介をするのがお約束。5代目三遊亭圓楽司会時代には一旦休止したが、桂歌丸の司会就任と同時に復活している。
- 例
三波伸介世代は…(松崎真に対して)干された布団、球場に捨てられたポップコーンの袋、夜明けのマンホール、陸に上がったトドの死体、夜店のライギョ、仁王様の湿った草鞋、片付け忘れたコタツ、カビの生えたイチゴ大福
圓楽の場合は松崎に対して「交通安全の守護神」、山田に対して「江戸川のスター」と簡潔に、かつ罵倒的でない紹介をしていた。
桂歌丸世代は…(山田隆夫に対して)麻というよりも浅ましい、笑点のゴミ、金魚のフン、ご飯を食べると子作りを始める、花嫁よりも鼻くそ、梅雨時に生えたカビ、昔は歌手今はカス、便所コオロギ、使用済みのたわし、セーターの毛玉
etc…
歴代座布団運び
- 三升家勝松(4代目桂文字助) 1966.5.15 - 1967.1.22
落語協会所属。記念すべき初代座布団運びだが、裏方に徹しており後発の座布団運びのようなキャラ付けはされなかった。
座布団運び引退後も裏方として参加していた。
2021年死去。『笑点』第1回出演者としては最後の存命者だった。
- 毒蝮三太夫 1967.1.29 - 1969.11.2
ウルトラシリーズや『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』でおなじみの俳優。初代司会者・立川談志の誘いで2代目座布団運びに就任。
当初は本名で活動していたが、同じ曜日にウルトラシリーズを放送していたこともあって「なんでアラシ隊員orフルハシ隊員が座布団運びやってるんだ」とクレームを入れられるようになったため現在の芸名に改名した。
落語芸術協会所属。当時の『笑点』はチーム対抗戦であり、後述の三笑亭夢八とふたりで座布団運びをしていた。担当は4代目三遊亭金馬チーム。
1970年2月の北海道収録では戸塚睦夫の補佐に回った。
落語芸術協会所属。三遊亭笑遊とふたりで座布団運びをしていた。担当は2代目三遊亭歌奴(3代目三遊亭圓歌)チーム。
1970年2月の北海道収録では伊東四朗の補佐に回った。
2015年死去。
- 小野千春 1970.6.21 - 1971.7.11
女優。ミニコーナー「前武›前田武彦の何でも入門」から座布団運びに抜擢。女性初の座布団運び。
その美貌から、現在で言うセクハラ的な言動をされることもあった。
1999年頃死去。
- 桂米助(ヨネスケ) 1970.6.21 - 1971.7.11
落語芸術協会所属(当時)。桂歌丸の推薦で起用された。
小野千春のサポート役を務めた。
- 松崎真 1971.7.18 - 1984.9.30
元新東宝所属の俳優。「手を挙げて横断歩道を渡りましょう」の決め台詞で人気を博した。
当時のプロデューサーが松崎の親戚だったために起用されたとされる。
赤い色紋付を纏った最初の座布団運び。
2015年死去。
- 山田隆夫 1984.10.7 -
昭和・平成・令和と四半世紀以上に渡り座布団を運び続ける「小さな巨人」。
「ちびっ子大喜利」で座布団10枚を獲得し「ずうとるび」を結成した紅白出場歌手。
5代目三遊亭圓楽が「重い座布団をちっちゃいのが運んだら面白いんじゃないか」と発案し起用されたとされる。
「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」という決め台詞でおなじみ。
色紋付は朱色のイメージが強いが、就任から1年間は赤紫色だった。