概要
激動の昭和時代の日本映画を支えた一人。本名は田所康雄(たどころ やすお)。
芸名の渥美清は、かつて旅回りの演劇一座に所属していた際に「渥美悦郎(あつみ えつろう)」という名で活動していたが、当時の座長が配役紹介の際に何故か「悦郎」の名をど忘れし、咄嗟に「きよし」と呼んだことがキッカケとのこと。
経歴
1928年3月10日生まれ。出身は東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)。
小学校に弁当を持って行けないほど貧しい家庭に生まれ、様々な職業を転々とした後、ストリップ劇場でコメディアンとして評判になる。若い頃は荒れた生活をしていたようだが、元々病弱な身体であり、結核で生死の境を彷徨ったことを期に規則正しい生活を送るようになった。
俳優としては、1963年の野村芳太郎監督の喜劇映画『拝啓天皇陛下様』が出世作となった。貧しく不遇な育ちの男が軍隊に入ってようやく安住の地を得て…という内容で、同作の主人公のような恵まれない少年時代を送った渥美には正にハマり役であった。
そして1968年、山田洋次監督のテレビドラマ『男はつらいよ』の主人公“フーテンの寅”こと車寅次郎役を演じ、これは渥美にとって良くも悪くも役者人生を決定づけることとなった。『男はつらいよ』は翌年以降、毎年2回新作が作られ、これが生涯の当たり役となり、ついに渥美自身も「寅さん」と呼ばれるほどになってしまった。
本人はこれをなんとか払拭しようと、「砂の器(1974年)」や「幸福の黄色いハンカチ(1977年)」など様々な役柄に出演していたが、結局他の仕事が来づらくなってしまって最後には諦めていたという。さらに病気がちであったことや、男はつらいよシリーズにスケジュールの多くを圧迫されていたことなどもあり、同作のヒット後には他作品に出演する機会は大幅に減ってしまっている。
私生活でも涙もろい人情家であり、友人が少し障害のある息子を厳しく急かした所、逆にどやした友人を怒鳴りつけたという。一方で自身の息子に対しては非常に手厳しく、食事の作法の不出来を見ては、激しい折檻を行っていたと息子本人から暴露されている(ちなみにその息子とは、現在フリーのラジオディレクターをしている田所健太郎である)。
このような断片的な情報こそあるが、寅さんのイメージを壊したくないという信念から私生活を徹底してひた隠しにしていた。よって山田洋次ら仕事仲間でさえも彼のプライベートを知る者はほとんどおらず、実際の人物像の多くは晩年から死後にかけて少しずつ明かされたものである。
このスタンスを端的に表す事例として、長男の健太郎がとある大手テレビ局の新入社員となった際、当時父兄を伴う習慣のあった入社式に長男の付き添いで現れた事で、社内が騒然となったというエピソードが残されている(事前に提出していた書類には本名を記載していたため、担当者らには無名の大部屋俳優と勘違いされていた)。
生前は上述の事情もあってインタビューなどを受ける機会はほとんどなかったが、晩年は自身の死期を悟ってか態度を軟化させ、『男はつらいよ』最終作品の密着取材を引き受けた。
1996年8月4日、肺がんで死去。晩年は関係者の目から見て大分辛そうにしていたようで、男はつらいよ最終二作品については医者から「出演できたことが奇跡」と言われるほど身体が弱っていた。しかしスクリーン上では可能な限り普段と変わらぬ演技を見せ、意識しなければわからないという者もいるほどであった。実際、体調不良のためファンの声援に応えられない渥美を見たファンが「思ったよりも愛想が悪い」と非難したほどだった。
最期は「寅さん」でも「渥美清」でもなく、「田所康雄」として葬られることを望んだため、葬儀は身内だけで行われた。
「決して寅の墓は作るな」とは彼の遺言。そのためなのか、渥美の死後製作された『男はつらいよ』シリーズの第49作「ハイビスカスの花 特別編」および第50作「おかえり 寅さん」では、寅次郎の消息については一切言及されておらず、どこで何をしているのかわからなくなってしまったという形に落ち着いている。ちなみに、山田洋次監督は渥美が存命であったのなら、本来製作されるはずであった第50作目で寅次郎を死去させる展開を考えていたという。
死後、国民栄誉賞を受賞した。
関連タグ
茶豚 / トキカケ:漫画『ONEPIECE』の登場人物。渥美演じる寅さんがモデル。
両津勘吉:漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公。寅さんと同じく「葛飾区出身で、地域を代表するキャラクター」「“○さん(寅さん・両さん)”という愛称」「破天荒な性格」など共通点が多い。