石平(評論家)
せきへい
中華人民共和国の四川省成都市出身の評論家であり、2007年に日本国籍を取得して2007年日本に帰化した。
出生名は「石平」の表記が同じで「シー・ピン」の読み、帰化後は日本語流に「せきへい」としている。
1980年に北京大学の哲学部に入学し、卒業してから4年後の1988年4月に日本へ留学して日本語学校入学した。
1995年には神戸大学の大学院で文化学研究科博士課程修了(学位は未取得)し、民間の研究機関に勤務していた。
日本国籍を取得した後の2008年4月からは、拓殖大学の客員教授も務めている。
2002年の初頭に中華人民共和国の反日感情をレポートした書物を出したことから論壇デビューし、それ以来『正論』『Voice』『WiLL』など日本の保守系オピニオン誌で論考を寄稿するようになり、日中関係や中国問題などを論じている。
また、大手テレビメディアの中国関連ニュース番組・討論番組ではコメンテーターも務めている。
1962年(昭和37年)に生まれ、1966年に文化大革命の最中で教師であった両親が大学から追放されて農場へ「下放(国民を地方に送り出す政策)」されてしまったため、四川省の農村部で漢方医であった祖父によって養われた。
祖父とは彼が11歳の時に死別したが、医師となり跡継ぎとするべく密かに論語を教えられていたという。
中学校時代にゴミ拾いの貧しいお婆さんが近所に住んでいて、いつも笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけられていたが、ある日突然に姿が見えなくなり、後に「反革命分子」として共産党政府に逮捕されていたことを知る。
その数日後、ゴミ拾いのお婆さんはトラックに乗せられ、町中の市民に姿が解るよう見せるため一巡された後、処刑場に引きずり出され銃殺により処刑された。
処刑された理由というのが、なんと「ゴミ捨て場から拾った新聞紙(毛沢東の顔写真を印刷されていた)で大根を包んでいたから」というものであり、それだけでお婆さんは「反毛主席」の大罪人とされてしまったのである。
こうした経緯もあって、彼は大学卒業後に毛沢東暴政の再来を防ぐため、中国の民主化運動に情熱を傾けていた。
しかし、上述した文化大革命および1989年に勃発した天安門事件における中国共産党の政党・党派の利益しか考えない悪逆非道ぶりへの憤怒と絶望感から、「この国にはもはや用がない、何の愛着も義理も無い」と祖国との精神的決別に至り、その後日本人となった。
日本の歴史教育について
「子供達に一方的に、日本は侵略国家だったと教えるのは止めるべきである。(中略)道徳心や愛国心を教えるのも当然だが、歴史教科書の記述は中立でなければならない」(『日中をダメにした9人の政治家』(ベストセラーズ)より)
南京大虐殺について
「日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載ってませんでした。(中略)蒋介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、『親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか』と聞いたら、やはり『ない』と言っていました。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。(中略)そういう所を掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、二千年前の記述でも嘘じゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない」(『歴史通』2011年3月号(WAC)より)
- 『私はなぜ「中国」を捨てたのか』(WAC)
- 『「全身病巣」国家・中国の死に方~蝕まれた虚像の大国が悲鳴を上げる~』(宝島社・宝島SUGOI文庫)
- 『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)
- 『なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか~中華秩序の本質を知れば「歴史の法則」がわかる~』(PHP新書)
- 『なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか』(PHP新書)
- 『韓民族こそ歴史の加害者である』(宝島社)
- 『中国から帰化して驚いた日本にはびこる「トンデモ左翼」の病理~フォロワー18万人のツイッターで大反響のリベラル批判~』(徳間書店)
- 『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか~わが国だけが近代文明を手に入れた歴史の必然~』(KADOKAWA)
- 『トランプvs.中国は歴史の必然である~近現代史で読み解く米中衝突~』(産経新聞出版)