概要
この建築物は足利氏の初代当主である足利義康が居館として建築したものであり、その中の建物が寺院として用いられ、現在では真言宗の寺院、鑁阿寺として知られている。
現在の状況
この建築物は足利氏の氏寺でもあるが、武家屋敷として整備され、土塁や馬出などが存在したとされ、上空から見た形はほぼ正方形である。
この建築物は正式には『鑁阿寺』とされているが、城マニアには足利氏館として認知されており、城としての遺構としては土塁や堀などが残っている。
歴史
この居館はに源義康こと足利姓初代、足利義康(源義家の孫に当たり、鳥羽上皇に荘園を寄進したため信任を得る。上皇の死後保元の乱で名を上げるもその翌年病死)が足利氏館として下野国足利郡、現在の栃木県に建立したとされる。
そして二代目である足利義兼(父の死により若くして当主を継ぐ、早くから源頼朝に仕え名を上げるも、後に出家。なおこの人物の戒名が現在の寺院の名称である鑁阿である)がその地に守り本尊として大日如来を祀ったとされる。
その後三代目である足利義氏によって堂塔伽藍が建立され、足利氏の氏寺となった。
その後南北朝時代には鶴岡八幡宮(11世紀に建立された八幡神を祭る源氏ゆかりの神社、鎌倉幕府の将軍であった源実朝が甥の公暁に暗殺された地としても有名)に属すことになる。なお神仏習合の影響であろうと推測される。
近現代の動き
明治41年には本堂が寺院として古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定(現在の制度では重要文化財にあたる)され、大正11年、足利氏宅跡として史跡指定された。
なお本堂は昭和25年には重要文化財に認定され、平成25年に国宝指定された。
その他
鎧年越(よろいとしこし)
鎌倉時代に足利氏4代目である足利泰氏が一族の結束と勢力を誇示するため、鑁阿寺に五百の坂東武者を集結させたという故事にちなむ。
現在では節分に坂東武者に扮した人たちが大通りを練り歩き豆まきをするという行事になっている。
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タグとしては城姫クエストや御城プロジェクト:RE関連の作品(これらの作品で擬人化されている)しか存在しない。前者に関しては足利氏館(城姫クエスト)を参照。