プロフィール
本名:松尾 昭(まつお あきら)
血液型はB型。
1948年12月29日の生まれであるが、役所への出生届けが遅れたのか戸籍上の生年月日は1949年1月1日となっている。
栗間太澄(くりま たすみ)、または松尾幻燈斎(まつお げんとうさい)という別名を持つ。
栗間太澄はMr.マリックを「ミスタマリク→クリマタスミ」と反対側から読んだものに無理矢理に漢字を当て嵌めた名前である。
概要
サングラスがトレードマーク。
『Mr.マリック』のネーミングは「マジック+トリック」を合わせたもの。
かつては「超魔術」と「ハンドパワー」で一世風靡するほどの大人気っぷりで、とんねるずの木梨憲武が看板番組『とんねるずのみなさんのおかげです』内のコントで『Mr.ノリック』としてパロディーを演じたほど。
特に小学生からは絶大な人気があり、小学館の児童向け漫画雑誌のコロコロコミックなどでも頻繁に超魔術の記事が載ったり、マリックを主役にした読み切り漫画が掲載され、1989年から連載を開始した河合一慶による漫画『サイキッド謎丸』の劇中には主人公を導く重要キャラクターとしてマリック本人が登場した。
古今東西のマジックの紹介や伝承が廃れたとされるマジックの復刻の研究も行っている。
ブレイク→転落→再起への道程
実は最初は本業でのマジシャンではなく、マジックグッズを手がけるテンヨー社のマジック道具をデパートの店頭で実演販売していた販売員だった。
両親への遠慮と建前もあり、高校卒業直後にはガス器具メーカーのパロマに就職するが、この頃に趣味が高じてマジシャンのコンテストに出場するようになり、TV番組のコンテストで優勝することもあった。
パロマには半年ほど勤務し、やがて行きつけの百貨店(現在の三越名古屋店)にて、テンヨー社のマジック用品売り場の実演販売員に欠員が出た事を知り、両親の反対を押し切って転職したのだった。
その後はテンヨー社の販売員としてマジックの経験を重ね、やがてマジックショップの経営や新人の指導を行うようになり、全国各地でマジック教室を開く程にまで成長する。
彼曰く、こういった商品は「マジックのネタ」を売っている性格上買ったら仕組みを知って満足してそれまでというのが大半だが、中にはマジックの手法を理解して当時の彼にやって見せにきたり質問をよくしにくる客がいたという。
こういった好奇心旺盛な客こそが「将来マジシャンになりうる素質がある」との事。
ちなみにマジック自体は少年時代からやっていたらしく、販売員時代に実演販売のセールストークやテクニックを磨いた事で「客を惹き付ける術」を身に付けていったのだとか。
1969年、20歳の時に上京。
上京後も変わらずマジック用品のメーカーに勤務しつつ、この年にハワイで開催された環太平洋マジックアソシエーションの『クロースアップ部門コンテスト』に参加し、日本人での初優勝者になるという快挙を果たしている。
この頃から「名門ホテルのラウンジで行うマジックショー」という演出形態を採り入れ、全国の有名ホテルのラウンジでのライブ興行を全国展開するようになったマリックは、やがて日本テレビのディレクターと出会う。
これをきっかけにして1988年、39歳の時に日本テレビ系の人気番組『11PM』でMr.マリックとしてテレビ業界に進出。
芸能界に「ハンドパワーを使う超魔術師」として電撃デビューする。
そして1989年、日本テレビ系の人気番組『木曜スペシャル』でマリック単独の特別番組の放送が始まり、28%を超える高視聴率を獲得するに至る。
マリックが番組中で発した「超魔術」「ハンドパワーです!」「来てます!来てます!!」といったパワーワードはやがて流行語となり、こうして「超魔術ブーム」を起こすまでに登り詰めた。
しかし、加熱する「超魔術ブーム」によって「Mr.マリックはマジシャンではなく超能力者」だと世間からは一方的に誤解されてしまい、やがて人気に陰りが見え始めると今度は「インチキ超能力者」だと不条理なバッシングをされる風評被害を受ける事になる。
1991年になると、マスコミに扇動されて掌を返したテレビ業界は、わざわざ『糾弾!Mr.マリック』というタイトルのスペシャル番組まで制作してマリックを追い詰める程であった。
そもそも、Mr.マリックの芸は「超魔術」であり、本人は「超能力」だとは一言も言っていない。
「超魔術」のネーミングも「超能力」を意識したマリックの造語であるが、これを世間が「マジックではなく超能力的なもの」だと勝手に解釈したのは、マリックを大袈裟に脚色し、あたかも超能力者のように扱ったメディアやマスコミの仕業である。
1990年に発売した小室哲哉とコラボレーションしたアルバム『Psychic Entertainment Sound』の曲中で聴けるマリック本人のナレーションでは「ハンドパワー、それは“光”です。超能力とは、“イメージ”です。」と語っており、「超能力はイメージ」だとはっきり断言している。
マリックが色の濃い大きめなサングラスをかけ始めたのは、こうした不条理な一般人やマスコミからのバッシングが大きなストレスになり、ついに右顔面に顔面麻痺の症状が出た事が原因である。
1990年代の初期にテレビ番組に出演する際は幅広のサングラスを常にかけていたのはその為だという。
超魔術ブームが完全に終わった1991年以降は徐々にメディアへの露出が減り、1994年頃になるとバラエティー番組にゲスト出演しても完全に「過去の人」扱いされるまでに落ちぶれてしまうが、その後ロサンゼルスにてマジックショーを披露する日々を過ごし、その中で本来の「自分の手品」を思い出し、精神的に立ち直ったマリックは一流のマジシャンとして完全復活を果たす。
1997年に帰国してからテレビ番組『投稿!特ホウ王国』への出演オファーを手品師『栗間太澄』として引き受け、再ブレイクに繋がった。
余談
マリックは1980年、31歳の時に誕生した娘を愛していたが、仕事一筋で頑固一徹な人間だった故に父親としてまともに接しなかった事と、そもそものマリックのマジシャンという一般人には理解されづらい職業柄の立場故に、娘が世間から奇異な目で見られる事を避けられなかった事によって、やがて思春期を迎えた娘は親への反抗心からグレてしまい、いつしか手の付けようのないレベルの凄まじい不良となり家庭崩壊を引き起こしてしまう。
その時にマリックは、父親として娘を大声で叱る事すらしておらず、娘がしでかした数々の問題行動で学校に呼び出された際にも全くそれが出来なかったという。
後に無責任なマスコミにより「インチキ超能力者」だと糾弾されて芸能人としての仕事が殆ど無くなり落ちぶれて、そこから自分を見つめ直してマジシャンとしての再起を誓って改心した際には「自分が娘とまともに接していなかった事実」と真摯に向き合い、娘に「お前が本当にやりたい事、なりたいものは何か?」と聞くなどして歩み寄るようになる。
娘はマリックの改心を信じられず、その場を適当な回答ではぐらかしてしまうが、後日マリックが昼までゴロゴロしていた娘の姿を見て「自分は娘に信用されず、適当にはぐらかされていた」事実に気付き、「だらだらしてないで、何か夢を見つけろ!!」と、ついに父親として娘に“活”を注入した。
これで娘はマリックの改心と、何より「父が自分を娘としてずっと愛してくれていた」という事を知り改心し、ミュージシャンとしての道を志す。
マリックは娘の音楽の才能に元々目を付けていた事もあり、彼女の申し出を快諾して全力で後押しすることを決意した。
こうして娘はラッパーの『LUNA』として新たに出発したのだった。
マリックはこれらの事を「家庭より大切な仕事は無い」と振り返っている。
関連項目
マギー司郎:オーディション番組で共に後輩を育成している
ふじいあきら:昔の弟子
八景島シーパラダイス:同地でマジックショーに出演する他、イメージソング「シーパラきてます音頭」の監修を行う
ズイパラ来てます音頭:八景島シーパラダイスで開催された艦隊これくしょんイベント・ズイパラの宣伝曲。上記のシーパラきてます音頭がベース。