概説
1940年7月7日生まれ。本名はリチャード・スターキー(Richard Starkey)。
元々ビートルズのメンバーではなく、加入したのはデビュー直前の1962年8月であった。しかし、ビートルズの解散直前にはメンバーの人間関係に於いて潤滑油的な役割を果たしたとも言われる。左利きであるが、ドラムやギターは右利き用の物を使っている。
芸名の「リンゴ・スター(Ringo Starr)」は、ビートルズに加入する前から名乗っており、両手に指輪を多数はめていたことから「Rings→Ringo」となり、「Starkey」を縮めて「r」を一つ足したものである。
ビートルズのメンバーではあったが、70年代後半以降は長い低迷期間に陥ってしまう。しかし、90年代に入ると復調し、大ヒットを飛ばす事こそなくなるが、マイペースに、そして精力的に活動を続けている。
来歴
誕生からビートルズ加入まで
3歳の時に両親が離婚し、事実上母子家庭に育つ。幼少期から少年期にかけては病弱で、6歳の頃には虫垂炎によって昏睡状態に陥ったり、13歳の頃には結核に罹患し2年間の療養所生活を送ったりするなどして、満足に教育を受ける事が出来なかった。この療養所生活期間中に「病院のバンド」で戸棚を打楽器のように演奏したことから、ドラミングに興味を抱くようになったそうだ。
その後は職を転々としていたようだが、1959年3月にはリヴァプールのバンド、「ロリー・ストーム&ハリケーンズ」のメンバーとしてステージに立つようになった。この時からリンゴ・スターの芸名を名乗るようになる。ハリケーンズ加入後には収入が安定し始め、ジョージ・ハリスンの証言によれば、ビートルズと知り合った頃には、リンゴは既に高級車を乗り回していたと言う。
ロリー・ストーム&ハリケーンズは、1960年に西ドイツ(当時)のハンブルクで巡業をしており、当時は格下のバンドであったビートルズと交代で出演していた。この頃にリンゴはビートルズと面識を持つようになったばかりか、当時のビートルズのドラマーであったピート・ベストの不在時に代役でドラムを叩き、また、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンとレコーディングもしていたことが分かっている。
1962年6月にEMIのオーディションを受けたビートルズであったが、8月にグループはドラマーのピート・ベストを解雇してしまう。ビートルズは直後にリンゴに対し加入を要請し、彼はそれを受諾する。かくして、60年代に世界を席巻し、ポピュラー音楽史上に絶大な足跡を残すバンドのメンバーが出揃ったのである。
ビートルズ時代
しかしながら、ビートルズのメンバーとしての滑り出しは順調ではなかった。デビューシングル”Love Me Do”について、プロデューサーのジョージ・マーティン(Sir George Martin, 1926-)が、スタジオ・ミュージシャンをドラムに起用したのである。結果として、リンゴがドラムを叩いたテイクは一度は発売されたが、すぐに後のテイクに差し替えられるという憂き目を見た。マーティンはこの件には「単にリンゴがどういう人なのか(当時は)よく知らなかったし、いかなるリスクをとるつもりもなかった」と述べている。リンゴがドラムを叩いた"Love Me Do"の演奏は現在『パスト・マスターズ』(Past Masters)で聴くことができるが、発売当時、混乱を避けるためにマスター・テープが早々と破棄されてしまったため、シングル・レコード盤から起こした音源になっている。なお、ビートルズが人気を得ると、「ビートルズが録音したテープについては、如何なるものであっても処分してはならない」という指示が出るようになった。
1964年のワールド・ツアー中に扁桃腺炎にかかって入院し、やむなくジミー・ニコル(1939-)がリンゴの代役を務める事態になった。
1965年にはモーリン・コックスと結婚し、同年9月に長男ザック・スターキー(The WhoやOasisのサポート・ドラマーとして知られる)が誕生した。同年MBE勲章を授与される。時期は前後するが1964年の映画A Hard Day’s Nightと、HELP!では、ストーリーの中心的存在として活躍した。
ビートルズのメンバーの中では最も穏やかで人格者であったとされるリンゴだが、アルバムThe Beatles(通称『ホワイトアルバム』)のレコーディング期間中の1968年8月22日に、自分の出番が少なくなっていたこと(この時期には他の3人は個別にレコーディングすることがしばしばあり、また、そもそもドラムを必要としない曲も録音されていた)や、ポールの管理主義的・独裁的な態度に激怒したことにより、グループを脱退してしまう。結局9月3日には復帰したが、不在期間中にレコーディングされた曲ではポールがドラムを叩いている。メンバーはリンゴの復帰を歓迎したが、翌69年1月にはやはりポールの管理主義的なやり方にキレたジョージが一時ビートルズを脱退する事になった。
解散直前の1970年3月にはスタンダード・ナンバーをカバーしたソロアルバム『センチメンタル・ジャーニー』を発売した。
ビートルズに関するエピソード
- リンゴにも「イエロー・サブマリン」("Yellow Submarine”)を筆頭に、十数曲リードヴォーカルを務める楽曲があった。スタジオ・アルバムでは一部を除き、少なくとも1曲はリンゴのヴォーカル曲が収録されていた。また、リンゴを含めたメンバーがユニゾンで歌う部分では、彼の声が一番前に出ることもある。
- ビートルズの公式発表曲中、リンゴが本名のリチャード・スターキー名義で作曲者としてクレジットされているのは5曲だけで、リンゴの単独作詞作曲扱いになっているのは「ドント・パス・ミー・バイ」("Don’t Pass Me by”)と「オクトパス・ガーデン」(“Octopus’s Garden”)のみ。後者に関してはジョージがかなりの部分を手伝っている。
- リンゴはドラムソロを好まなかったが、唯一『アビイ・ロード』(Abbey Road)収録の「ジ・エンド」(“The End”)に、ドラムソロがある。
- 独特の言語感覚を持つ、というより、ちょっとした言い間違いをする事があったが、ジョンがそれを気に入り(Ringo-ism=リンゴ語と呼んでいた)、楽曲のタイトルに採用した事がある。例として”A Hard Day’s Night” “Eight Days a Week” “Tomorrow Never Knows”。
- インタビュアーから「ベートーヴェンについてどう思うか」と訊かれて「いいね、特に詩が素晴らしい」とジョークで答えた事がある。
- 「人気投票では3人に敵わないけど、『2番目に好きなメンバー』を選ぶ投票なら、きっと1番になれる」とのコメントを残している。
ビートルズ解散後
1970年代前半
1970年代前半はリンゴのソロ活動における絶頂期であり、1970年12月には『カントリー・アルバム』(原題:Beaucoups of Blues)をリリースした。
翌71年にはリンゴ自身が作詞作曲し、ジョージ・ハリスンがプロデュースしたシングル「明日への願い」("It Don’t Come Easy”)が全英・全米ともに4位を記録するヒットを飛ばすと、1973年にはアルバム『リンゴ』(Ringo)が全英7位、全米2位を記録し、先行シングル「想い出のフォトグラフ」(“Photograph”:ジョージ・ハリスンとの共作)、リカットされた「ユア・シックスティーン」(“You’re Sixteen”)はいずれも全米1位(イギリスではそれぞれ8位と4位)の大ヒットとなった。特にアルバム『リンゴ』は、解散後初めて元ビートルズのメンバー全員が参加した(但し、全員が共演した曲はない)ことで話題を呼んだ。ジョン・レノンが提供した”I'm the Greatest”では、ポールを除く3人が共演していた。1980年にジョンが死去したため、『リンゴ』が、ビートルズの元メンバー全員が参加した最初で最後の元メンバーのソロアルバムになった。
1974年には、ジョン・レノンやエルトン・ジョンから楽曲提供を受けた『グッドナイト・ウィーン』(Goodnight Vienna)も大ヒットとなった。
一方で、この時期にはジョンやジョージのソロ活動にも積極的に協力していた。
1970年代後半から80年代
しかし、1976年にビートルズ在籍時に設立したアップル・レコードを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から一気に低迷期に突入してしまう。私生活にもトラブルがあり、前年には不倫行為を重ねていたモーリンと離婚した。1977年にリリースした『ウィングス~リンゴⅣ』(Ringo the 4th)が全米100位圏内に到達せずに終わったり、病気で危篤に陥ったり、自宅が火事で全焼したりと散々であった。
モーリンと離婚した後のリンゴは、自身が主演した1981年公開の『おかしなおかしな石器人』(Caveman)で共演した、女優のバーバラ・バックと交際を始め、同年には再婚する。ちなみに、バーバラ・バックは1977年の映画『007 私を愛したスパイ』(The Spy Who Loved Me)でボンドガールになったことで知られる。時期は前後するが、1980年12月8日にジョン・レノンが射殺される衝撃的な事件が起きた時に真っ先にオノ・ヨーコを見舞ったのがリンゴとバーバラだった。また、この時、ジョンの前妻シンシアの自伝によれば、彼女が偶然にもリンゴの前妻モーリンの許に宿泊していたため、リンゴはシンシアにジョンの死を告げることにもなってしまった。
しかし、本業ではますます不振を極め、ジョージ・ハリスンやポール・マッカートニーとチャリティ・コンサートで共演する事はあっても、一時はアルバムが本国イギリスやアメリカで発売されないほどであった。1980年代後半には夫妻でアルコール依存症の治療を受けていた。
1989年以降
アルコール依存の治療を受けたリンゴは、1989年に第一線に復帰する。ビートルズのセッションに参加したビリー・プレストン、ザ・バンドのレヴォン・ヘルム、イーグルスのジョー・ウォルッシュという錚々たる面々を揃えて、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドを結成し、ワールド・ツアーに乗り出したのだ。このスーパーバンドは不定期ながら大物ミュージシャンを集めて何度も結成されており、リンゴの長男ザック・スターキーがメンバーに加わったこともある。
1989年の秋には来日公演も実施したが、リンゴは解散後最初に日本でライヴを実施した元ビートルとなった(ジョンは70年代後半に複数回来日しているが、活動休止期間中のプライヴェートなものであり、ポールは75年には入国許可取消、80年には成田で逮捕されたため、いずれもライヴが開けなかった)。翌90年にはポールが、91年にはジョージが来日公演をそれぞれ実現させ、日本のビートルズファンを喜ばせた。なお、リンゴは1995年、2013年、2016年にも来日公演を実施している。
1992年には久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』(Time Takes Time)を発表。1994年から95年にかけては、ビートルズ・アンソロジー・プロジェクトに参加し、ジョンが遺したデモ・テープにポール、ジョージと共に録音を加えて「ビートルズの新曲」を発表した。ただ、1994年には先妻モーリンが、ザック・スターキーからの骨髄移植などの治療もむなしく、白血病の合併症のため48歳の若さで亡くなり、リンゴは大きなショックを受けた。
1996年には日本の宝酒造「すりおろしりんご」(注:2013年現在、同社から発売されている缶チューハイ「すりおろし」シリーズではない)のCMに出演した。このCMではリンゴ・スターが商品のキャッチコピーである「りんごすった~」とダジャレを言うという演出が話題を集めた。天下の元ビートルズにオヤジギャグを言わせるという、斬新なCMにはいくつかのヴァリエーションがあるようで、2013年12月19日現在、各種動画サイトでご覧になることができる。余談だが、ビートルズは1968年に自分たちの会社としてアップル・コアを立ち上げている。
1998年、マーク・ハドソンと手を組み、共同プロデュースのアルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(Vertical Man)をリリース。このアルバムにはマッカートニーとハリスンも久々に参加した。2003年に『リンゴ・ラマ』(Ringo Rama)を発表してからは、2~3年に1作のペースでニュー・アルバムをリリースしている。2010年の『ワイ・ノット』(Y Not)にはポールがゲスト参加。2012年にリリースされた最新作『リンゴ 2012』(Ringo 2012)は、72歳にしてリンゴ初の単独セルフプロデュースのアルバムになった。
2010年頃からは、リンゴのコンサートにポールがサプライズで登場するなど、ステージ上での共演の機会もある。
ドラマーとして
手数や技巧の面では後年の名ドラマー達には及ばず、リンゴ自身も「決して技巧に長けたドラマーではない」と認めているが、引き出しの多彩さや鋭い感性から、ドラマーとしての評価は寧ろ高く、多くのドラマーに影響を与えてきた。
合衆国のドラマーであるスティーヴ・スミスは「リンゴが人気になったことで、ドラマーが曲作りに参加する者としても注目されるようになった」という趣旨の発言をし、リンゴと共演したこともあるフィル・コリンズも「(ビートルズの)『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』("A Day in the Life”)のドラムなんて、どんなに上手いドラマーでも真似出来るものではない」と述べている。
ジョン・レノンやビートルズのプロデューサーであったジョージ・マーティンも、彼の才能やバンドのサウンド作りにおけるリンゴの貢献を絶賛するコメントを残している。また、ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンによれば、リンゴは他の3人に比べてレコーディングにおける演奏ミスによる中断を引き起こした回数が非常に少なかったという。
「ローリング・ストーン誌が選ぶ最も偉大なドラマー」の第5位に選ばれている。
俳優・声優として
リンゴはビートルズが主演した映画において、物語の主人公、中心的な役割を担った事は先述した通りだが、その演技の才能を生かして数々の映画にも出演している。
ビートルズ時代には単独で『キャンディ』(Candy,1968年)と『マジック・クリスチャン』(The Magic Christian, 1969年)に出演した。前者は、いわばゲスト出演に近い立場で、公開当時は「もどしたいときはこの映画を」とまでに酷評されたが(2013年現在は再評価されているらしい)、後者は映画オリジナルキャラクターではあるが、ピーター・セラーズに次ぐ準主演として起用された。ちなみに、『マジック・クリスチャン』の主題歌"Come and Get It"は、ポールが作詞作曲し、バッドフィンガーに提供されたものである。
その後は80年代半ばまで、ドキュメンタリー、フィクションを問わず様々な映画に出演していた。変わったところでは、『きかんしゃトーマス』(Thomas the Tank Engine and Friends)においてナレーターを務め、関連作品の映画にも出演している。