西園寺公望
さいおんじきんもち
この人物は嘉永2年、藤原氏の流れを引く公家である徳大寺公純の次男としてうまれ、同じく公家の西園寺師季の養子となり家督を相続する。幼少より学習院で学び、さらに剣術も学んだとされる(ただし公家としては必須であるはずの和歌は苦手であった)。
その後祐宮の近習(主君 のそば近くに仕える者)このとき岩倉具視(公家として生まれ、養子となった後、公家方で政治運動を行い公武合体派として成功しかけるも失脚、その後倒幕派となり暗躍、明治維新後は政府の要職に就いたりしている)とも仲良くなり、その縁もあり参与となり、おそらくこの際侍にかぶれ、明治維新のうち戊辰戦争などでは最前線にいたともされる。
明治維新後は軍人ではなく知事の職を得たが、この職は気に入らず、軍人となるためにフランス語を学び、留学を志し、それは認められる。
留学
留学中のフランスは第三共和制の成立する前後であり、パリでは革命政府が成立していたものの、これには共感を抱かなかったといわれる。また公費での留学であったが、政府が留学生を減らすことを考えていることを知ると私費での留学に切り替えた(ただし明治天皇がじきじきに支援したりもしていたらしいが)。またこの時代、後にフランスで政治家となる人物などとの友好を得た。留学は10年間続いた。
留学殻の帰国後、特に何もしていなかったが留学時代の知り合いと新聞をつくり、社長となった。ただし周囲からやめるよう説得されたが、とうとう天皇からまでやめるようにいわれたため社長は辞任、新聞もあまり売れなかったため廃刊とした。
官僚として
その後参事院(伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関)議官補となり、ヨーロッパにいったりしている。その議官となった。
公使としてオーストリアやドイツに派遣されたりしている(なお、この時期リウマチとなっている)。
その後賞勲局(勲章・褒章など栄典に関する事務を所管する内閣府の部署)総裁となったり、法典調査会副総裁の副総裁となったりしている。明治29年に退職。
また、枢密院(憲法の問題も扱った天皇の諮問機関)の議長を明治33年から明治36年までこなしている。
政治家として
本来この人物は政治家となる気はなかったらしい。ところがフランス留学時に薦められたこと、侯爵の地位を得る(これにより自動的に貴族院議員となる)ことにより政治家となった。
明治26年には貴族院副議長となり、明治27年には井上毅(天保14年生まれ、熊本藩の武士、フランスで法律を学び、岩倉具視や伊藤博文のブレーンなどとして活躍し、大日本帝国憲法や教育勅語の作成にかかわった人物、明治28年結核により死亡)の代わりとして第2次伊藤内閣において文部大臣となる。この際日本を西洋諸国のように開明進歩させる教育を唱えたといわれる。また結核であった陸奥宗光の後をついで外務大臣となる。
しかし内閣が倒れ、松方正義が内閣総理大臣となると数日後に辞任、その後シビリアンコントロールや教育制度を学ぶためフランスに渡るが、虫垂炎のため帰国。
帰国後、明治31年には第3次伊藤内閣の文部大臣となり、新たな教育勅語の作成をもくろむものの虫垂炎の後遺症のため4ヶ月で辞任。
立憲政友会
伊藤博文の立憲政友会の立ち上げに参加して重要な地位に着く。第4次伊藤内閣におい手は病気であった伊藤博文にかわり内閣総理大臣臨時代理になっている。
明治36年、伊藤博文が立憲政友会の代表を追われると指名を受けて代表に就任し、大正14年までその職にあった。
総理大臣
明治39年、内閣総理大臣であった桂太郎との密約で内閣総理大臣となる。なおこの内閣は各方面に配慮したものであったといわれる。しかし元老(政府の最高首脳であった重臣であり、主権者たる天皇の諮問により総理大臣の決定や条約の締結などを決定する人々)の圧力と自身の体調不良により明治41年には総辞職した。
それ以降は政治家としての意欲を失いかけていたと思われるが、明治43年にはまたもや桂太郎との話し合いにより内閣総理大臣となった。今回は立憲政友会中心の組閣であったがそれは原敬の意向もあったとされる(なお、この二人はこの内閣内においては反目しあっている)。大正元年、軍部の要求を通さなかったことにより陸軍大臣の後継を得ることができず総辞職。
その後
桂太郎が三度総理大臣となると世論はこれに反対したため、内閣の不信任案を提出、これを阻止するため大正天皇の勅命まで出され、西園寺は議員を説得したものの説得も効果なく、内閣不信任案は通過してしまう。これにより党代表を辞任を表明したものの、慰留される(ただし政党の運営にはもうかかわらなかった)。後継の総理大臣指名を健康問題のため辞退する。
教育家として
教育家としては明治2年に私塾立命館を自宅に設立している。これは政府の不信を買い一年弱で閉鎖された(なお学校法人立命館の設立にはかかわっていないが、彼の公設秘書であった中川小十郎が設立したものであり、それを支援している)。また明治13年には明治法律学校(後の明治大学)の講師となっている。
また文部大臣時代には京都帝国大学(後の京都大学)の設立にかかわっている。
さらに明治34年には日本女子大学の設立にかかわっている。