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東軍の編集履歴2019/03/01 22:46:21 版
編集者:たぬきやま
編集内容:関連イラスト編集。

東軍

とうぐん

合戦やスポーツなどの試合において、2つの勢力に分かれる場合の片方を指す呼称。

東軍(関ヶ原の戦い

徳川家康を中心とした勢力で、徳川一門並びにその家臣、さらに福島正則らを始め「会津征伐」へと参加した豊臣恩顧の大名らにより構成されている。また会津征伐に参加していない地方の大名の中にも加藤清正黒田孝高伊達政宗らのように家康を支持する立場の者、周辺の利害関係などから東軍に属する者も存在する。

以下、※印の付記されている人物は関ヶ原本戦に参加していた者を指す。本戦に参加していた軍勢の総数は諸説あるものの7万~10万に上るとされるが、これ以外にも本戦への参加は叶わなかったものの、徳川秀忠を指揮官とした3万8千の中山道隊も擁していた。

東軍(応仁の乱

室町幕府管領・細川勝元を中心とした勢力。主戦場となった京都市街のうち、勝元の屋敷のあった小川通に本陣を敷いており、その付近を流れる堀川と小川を挟んで勝元の屋敷が東側に、敵対する山名宗全邸(西軍本陣)が西側にあったことが、それぞれの軍勢を「東軍」「西軍」と呼びならわす由縁となっている。

乱の勃発した当初、東軍は将軍や天皇を保護下に置く事で「官軍」としての体裁を整えており、また西軍の陣容が整っていなかったこともあり優位に戦いを進めていたが、やがて大内政弘を始めとする西軍方の諸将の入京に加え、当初東軍側に属していた足利義視が、兄である足利義政との対立から西軍へ鞍替えした事で「西幕府」を形成。対する東軍も朝倉孝景富樫政親らを寝返らせる事によって西軍の弱体化を図るなど、互いに決定打を欠いたまま戦局は長期化・拡大化の一途を辿る事となる。

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