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カンボジアの編集履歴

2019-03-21 22:04:28 バージョン

カンボジア

かんぼじあ

東南アジアに位置する王国。

概要

東南アジアインドシナ半島にある立憲君主制王国。クメール語表記ではកម្ពុជា首都は中部のプノンペンである。

王室および有名な地域

国民の多くが王室を敬い、仏教信仰が厚いとされ、北西部のシェムリアップには世界遺産アンコールワットが存在する。

歴史

近代まで

この地域は1世紀頃から様々な王朝が栄え、中国インドと交易した。とくに7世紀から13世紀まで続いたクメール王朝インドシナ半島の大半を国土とし、東南アジアの大国として栄えたものの、近隣諸国、タイ( シャム )やベトナムの干渉により弱体化19世紀からベトナムやラオスと共にフランス領インドシナとして植民地時代を迎える。

20世紀

20世紀大日本帝国の支援を受けて若きノロドム・シハヌーク国王が独立を宣言するものの、第二次大戦フランス領に復帰、1949年に完全独立する。

王政( 一次 )

王制社会主義のもとに統治され、ベトナム戦争には中立的であったものの、中国との関係もあり北ベトナムよりであったことを疑われ、国王が北京への外遊中に親米派のロン・ノルによるクーデターが発生、南ベトナム側としてベトナム戦争にも積極的介入するようになものの、国王はサロット・サル率いるクメール・ルージュとともに親米政権との内戦を続け、政権を奪還。

カンボジア内戦

ところが、サロット・サルは政権を掌握すると「ポル・ポト」と改名、シハヌークを幽閉するとともに敵対勢力および同志の粛清を含む苛烈な独裁と圧政の元に虐殺および飢餓により多数の国民が殺害あるいは死亡する( この時期の死者および消息不明者に関しては前後の統治体制が崩壊しており、国勢調査が行われていないため正確な数は不明 )。

ベトナムの侵攻

クメール・ルージュの前代未聞恐怖政治の実態が世界に明らかになるのは、カンボジアと仲たがい( これは中華人民共和国ソ連代理戦争の意味合いもある )したベトナム攻撃の報復としてベトナム人民軍がカンボジアに侵攻した後のことであり、この侵攻に対し粛清と飢餓で弱体化していたクメール・ルージュ政権はベトナムの反撃を前にあっけなく崩壊首都まで侵攻を許す結果となった。

占領時代

ベトナムによる占領および傀儡政権による支配にあったが、クメール・ルージュおよび民族派は辺境部で抵抗を続けており、内戦は継続し、代理戦争は「ソ連Vs中国+アメリカ」の様相となっていた。

ベトナム軍撤退と王政復帰

ベトナム人民軍が1989年撤退1991年カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定が成立、国際連合による平和維持活動が行われ、選挙後、憲法が制定され、立憲君主制が敷かれシハヌークによる王政に復帰することとなり、その後も民兵による内情不安は続いたものの、各国の支援により内戦からの復興が進められている。

王政

2005年にシハヌークが病気療養のため退位( 後2012年、長い闘病生活の末、89歳で崩御 )。その時点で皇太子( 異母兄が3名存命であった模様であるが辞退したり排除されたりした模様 )となっていたノロドム・シハモニが、王位を継承した。

国王

日本と同じ立憲君主制の国である。

しかし、選挙君主制を採用しておりノロドム家とシソワット家のメンバーから王室評議会により選出され国王に即位する。議員は、首相・両院正副議長・上座部仏教の二宗派の代表で秘密投票により選ばれる。国王は終身制である。

国際関係

隣国との関係はあまり良好ではないと思われ、ベトナムはもともと不仲( ただし現政権はベトナムの傀儡政権の流れをくむため割と友好的 )、タイ王国とも2008年以降仲たがいし大規模な武力衝突を発生させるなどしており、予断を許さない状況であるが、中国との関係が深いとされ、また日本との関係も良好ではないかといわれることがあり、これは中国等はODAの見返りを要求してくるのに対して日本は一切要求してこない為、逆に日本にお礼がしたいと言う気持ちが強く、親日感情につながっているとの見方も存在する。

関連タグ

東南アジア アンコールワット

ポル・ポト 仏暦

日本 ベトナム

猫ひろし

参照

wikipedia:同項目およびリンク先

外務省:カンボジア情勢と日・カンボジア関係

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