概要
江戸幕府開祖の徳川家康以来15代徳川慶喜まで、代々征夷大将軍に任官した一族。明治維新以降は華族として最高位の公爵に列せられた。
家康の先祖の一族は三河(愛知県東部)は松平郷の松平家出身で、家康が今川家から独立した際に新たにこの苗字を名乗った。これは、家康の祖父松平清康の代から清和源氏新田氏流の世良田氏の末裔を称した事、およびその世良田氏の祖である世良田義季が「得川」姓を名乗ったと言われている事によるものだという。
江戸時代には徳川家康の子孫でも、宗家以外に御三家(尾張家・紀伊家・水戸家)、御両典(甲府・館林)、御三卿(一橋家・田安家・清水家)のみが名乗ることができた。ただし、多くの場合、徳川一門といえば、徳川家康の子孫で徳川を名乗らなかった結城(越前)松平氏・保科(会津)松平氏・越智松平氏・御連枝(御三家の分家)を含む。他に、家康の養子となった外孫を家祖とする奥平松平家や、家康の異父弟を家祖とする久松松平氏の中でも田安家から養子を取った2家も一門扱いされることがある。
江戸幕府は徳川家に征夷大将軍にして武家の棟梁としての正統性を持たせるために、遠祖であると称した新田義貞ら新田氏の再評価を奨励した。新田氏は室町将軍家の足利氏に劣らず源氏の嫡流であり、それ故のその子孫たる徳川家も源氏の嫡流にして源頼朝に倣って武家の棟梁たりうるとしたのである。江戸時代には水戸家の徳川光圀を始めとして歴史研究がすすめられたが、新田義貞を嫡流とする立場から自然と南北朝時代を南朝正統として描くことになった。これが皮肉にも幕末の尊王討幕運動に繋がっていく(「征夷大将軍の近世的展開へ」『征夷大将軍研究の最前線』,2018)。
明治維新以降は御三家と御三卿に加えて、徳川慶喜から始まる慶喜家、水戸家分家の松戸徳川家が華族として列せられた。
現在も名字として徳川姓は存在するが、徳川というとだいたい将軍家を連想しやすい。
歴代将軍
- 徳川家康(1542年~1616年)
- 徳川秀忠(1579年~1632年)
- 徳川家光(1604年~1651年)
- 徳川家綱(1641年~1680年)
- 徳川綱吉(1646年~1709年)
- 徳川家宣(1662年~1712年)
- 徳川家継(1709年~1716年)
- 徳川吉宗(1684年~1751年)
- 徳川家重(1711年~1761年)
- 徳川家治(1737年~1786年)
- 徳川家斉(1773年~1841年)
- 徳川家慶(1793年~1853年)
- 徳川家定(1824年~1858年)
- 徳川家茂(1846年~1866年)
- 徳川慶喜(1837年~1913年)
徳川一門の著名人
松平信康 結城秀康 松平忠輝 徳川義直 徳川頼宣 徳川頼房 徳川宗春 徳川忠長 保科正之 徳川光圀 松平治郷(松平不昧) 徳川斉昭 松平慶永(松平春嶽) 松平容保